>NOVEL>葛飾、最後のピース

第5話
唯一の理解者
 

 一英は普段通りのタイトなサマースーツで、JR関内駅に降り立った。電線のない関内の空は、広々として清々しい。横浜で働き始めて以来、欠かすことのない眼鏡越しに、一英は駅前にそびえたつ山、横浜スタジアムを見上げた。
 成長とともに縦に伸びたその顔は、当時ほど日に焼けてはいないが、張りのある黒髪とまっすぐな眉に子供の頃の面影を残し、末広の二重まぶたとそこを縁取る濃いまつ毛は、今でもすっきりとした眼力を与えている。
 前日美容院でベリーショートにしたばかりのヘアスタイルは、彼を朝からゴキゲンにしていてくれていて、まだ八時を回ったばかりだというのに既に三十度近いだろう熱気にも、涼やかな顔で歩く。スタジアム横の公園では、重なり合う木陰に蝉たちの合唱が響き渡っていた。
 毎朝立ち寄るコンビニで、一英がペットボトルの並んだ冷蔵庫を開けていると、その背に少しハスキーな、だが爽やかな声がかかる。
「おはよう」
「あ、朔田さん、おはようございます」
「聞いた? ロイヤルワーク社の小峰さん、リストラされたって」
「あぁ聞きました。役職つきの人なのに」
「リーマンショックの煽りなんだろうけど、ひどい話だよね」
 同僚で一つ先輩の朔田は絵に描いたような好青年で、仕事もでき、スーツがよく似合う。彼の常にサラッとしたやり取りを好むところが、一英は気に入っていた。
 朔田が賢そうに整った眉をひそめ、冷蔵庫の前で腕を組む。その姿は話題に憂えているようにも、ただ何を買おうか迷っているようにも見えた。
「リストラ後に再就職決まらなくて故郷に帰ったって話も、よく聞くようになったし。遠いとこから上京してる人は大変だよね」
「そうですね」
「井梶はどこなんだっけ、出身」
 朔田は冷蔵庫を開け、いつでもしゃんと伸びた背筋で缶コーヒーを手に取る。思いがけない質問に、一英は持っていたペットボトルを弄んだ。
「えっと……俺もけっこう遠いんですよ。だから、なかなか帰れなくて」
「そう、近いのは近いので大変だよ。俺も一人暮らしだけど、実家は市内でさ。近いんだから夏季休暇にも当然帰ってこい、とか言われるよ。月イチで帰ってるのに」
 困ったふうで笑う朔田に、一英は「大事にされてんすよ」と微笑み返す。レジへと歩き始めた朔田が「そういえば」と眉を上げた。
「瑠奈ちゃん、今日出発だっけ?」
「えぇ、今晩。見送りに行ってきます」
「そっちこそ大事にされてんだから、しばらく会えなくて寂しいんじゃないの?」
「いやぁ」
「でも嬉しいね、紹介した二人が上手くいってるのって」
 朔田はいつもの缶コーヒーと日経新聞を買い、なじみの店員と笑顔を交わす。その人当たりの良さを秘かにならっていた一英は、自分もいつものように、ミネラルウォーターを過ぎない笑顔で店員に渡す。
 朔田の好青年ぶりは、二人がコンビニを出ようとした時にも発揮された。
 前を行く朔田が入店してきたサラリーマンとぶつかりそうになり、紳士的な自然さで「失礼」と口角を上げる。すると相手のほうも「こちらこそ」と会釈し、一英にまで礼節のある微笑を向けながら店に入っていくのだ。
 そんな横浜の上品な朝を、一英は清々しい気持ちで受け止める。
 二人はゴミ一つ落ちていない広々とした歩道を談笑しながら優雅に歩き、勤務先のあるオフィスビルへと入っていった。

 ◇

 その夜、一英は横浜の大観覧車に乗っていた。煌びやかなみなとみらいの夜景を恋人の瑠奈と見下ろす。
 朔田が取引会社との懇談パーティーで知り合ったという瑠奈を紹介してくれたのは、一年半ほど前だった。横浜育ちで森ガールでもある瑠奈は一英より一つ年下の二十六歳で、企業向けのマーケティング会社に勤めている。何度か仕事を一緒にしたことから、二人の付き合いは始まった。
 交際期間はまだ一年ほどだが、一英は彼女のふわふわとした陽だまりのような雰囲気を愛し、今までに出会ったどんな女性よりも大切に思っていた。
 瑠奈は手をつないで座る一英の肩に頭を預け、ゆるくウェーブした茶色い髪を揺らす。
「しばらくデートできないね」
 二週間ほどの研修へ行くことに瑠奈が不満げな溜め息をし、一英はなだめるように柔らかい髪をそっと撫でる。
「少しの我慢でしょ。帰ってきたらいいとこ連れてくよ」
「ほんとに? 嬉しい。なんか今日は、カズくんがいつもよりかっこよく見えるかもぉ」
「髪切ったばっかだから」
 ころころと笑いながら擦り寄ってくる瑠奈の、甘く鼻にかかった声に誘われ、軽く唇を重ねる。ちらりと見えた隣のゴンドラでは学生服のカップルが身を寄せ合っていた。
 瑠奈が左手をネオンにかざし、薬指にはめた婚約指輪を眺める。
「ねぇカズくん、これ高かった?」
「そりゃ奮発はしたけど、大丈夫だよ、俺貯金上手いから。またすぐ貯まるって」
 何気なく笑って見せるが多分に見栄を張ったのは事実で、すっからかんになってしまった貯金残高に一英はぽりぽりと鼻を掻く。また頑張って働かなきゃ相当マズイわけだが、幸せそうに笑っている瑠奈を見るだけで、報われるほどの温かい気持ちになった。
「これもらってから、もう一か月も経つんだね。ルナ、今年中に結婚式したいな。うちにはいつ挨拶に来てくれるのぉ?」
「そうだね。いつにしようか」
 細い銀フレームの眼鏡を押し上げスケジュール帳を取り出す一英に、瑠奈は人差し指を自分の顎に当て、小首を傾げる。
「ルナの研修が終わって、夏季休暇になったらすぐ。がいいな。ダメェ?」
 ねだるように、くりんとした大きな目がしばたく。そのとんでもなく破壊的な上目づかいにキュン殺されそうになりながら、一英は平静を装い「いいよ」とだけ答えた。きゃあと飛び上がった瑠奈が一英の腕を絡め取る。
「カズくん大好き! カズくんてさぁ、優しくてかっこよくて、クールでスマートで……もうルナ、カズくんのこと、本当にだぁい好き」
 細い腕が首にするりと巻きつき、アプリコット色に潤った唇が先ほどよりも傾いて迫ってくる。観覧車の頂点で否が応にも見えてしまった両隣のゴンドラは、いずれも恋人同士が熱烈なことになっていて、挟まれたからにはオセロのように従いそうになってしまう。
 だがそんな瑠奈の姿をあんなふうに人の目にさらすことはできなくて、焦った一英は「はいはい」とはぐらかしながら細い体を冗談じみて強く抱きしめた。笑いながら苦しいと降参する瑠奈を放し、つないだ手を指先で撫でる。
 一英はしばし言いよどんだ重い口を、ゆっくりと開いた。
「ねぇ瑠奈」
「ん?」
「瑠奈の家には、ちゃんとご挨拶に行く。でもうちの家族に瑠奈のこと紹介する時は、実家じゃなくて……横浜のレストランかどこかで席を設けようと思うんだ。……ダメかな」
 目を落とす一英は、瑠奈のきれいに塗られたマニキュアを指の腹で何度も撫でる。
 できるなら、実家には帰りたくなかった。
 あの街から遠ざかりたい一心で横浜に住み続ける一英は、社会人になり一人暮らしを始めてからの六年間、実家には一度も帰っていなかった。電話だけはするものの盆と正月さえ帰ってないのだから、次に帰るのは、きっと親が死んだ時だろうと一英は思っていた。
 うつむく横顔を見つめ、瑠奈がくすくす笑いながら揉み上げのあたりを撫でてくる。
「いいよ。カズくんが地元苦手だって、ルナ知ってるもん」
「なんで苦手なのかって、瑠奈、一度も聞かないよね」
 苦笑した一英が顔を上げると、もううつむかないでとでも言うように瑠奈は眼鏡のフレームを正してくる。
「カズくんが言わないってことは、言いたくないからなんでしょ? 思い出すのもつらくって言いたくない、ってこと、誰にでも少しくらいあるもんね。だから、ルナは無理してカズくんの実家にお邪魔しなくても、大丈夫だよ。ルナは、つらいより、楽しいほうがいいと思うの」
「瑠奈」
 これ以上ないくらい優しく微笑む瑠奈に、一英は心からの安堵を覚える。
 詳しいことは何ひとつ知らないのに、無理に聞こうとすることもない。どこの生まれだかも解らない男と婚約し、
「どこの人でもいいよ、カズくんはカズくんだもん。話したくなったら話して」
と言ってくれる瑠奈は大らかだ。一英はそのありがたい存在に改めて惚れ直した。
 新幹線の出発時間が迫り、大きなピンク色のスーツケースを転がしてきた一英は、新横浜駅のホームで瑠奈からの抱擁を受け入れる。乗り降りする人の波を待ち、最後に乗り込んだ瑠奈が、スーツケースを載せてやる一英を名残惜しそうに振り返った。
 半月程度の別れを寂しがるその顔に、一英が眉を下げる。そしてあたりに人目がないのを確かめ半身をドアの中に滑り込ませると、瑠奈の腕を引き寄せ、隠れるようにキスをした。
 名古屋へと出発する窓から瑠奈は手を振り、一英は最後までその姿を見送る。





 
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