>NOVEL>葛飾、最後のピース

第7話
数年ぶりの再会
 

 美洋に続き六人部屋の病室へ入ると、父英博の声が一番奥のベッドから聞こえてきた。
「おい、ちり紙」
 指示されるまま箱ティッシュを差し出した洋子が、三人に気づき顔を上げる。朝からの心配や不安もあってだろうが、その顔はこの数年でやはり少し老けたように見えた。
「久しぶり」
 一英が軽く手を上げてそう言うと、洋子はぱあっと顔を明るくした。
「あら、あらあらあら! カズ! あんたよく来て!」
「母さんが呼んだんでしょ」
「ほら、父さん、カズよ、カズ! もう久しぶりだわぁ! あんたほんとに、どんだけ帰ってこないの。やだよ、眼鏡なんかして! 大丈夫なのそれ、度があってないと余計悪くなるってよ。まったくもう、元気でやってるの? ねぇ!」
 洋子はたれ目を一層下げて、一英の体を確かめるようにバシバシ叩く。美洋はつり目がちだが、笑うと頬の盛り上がる丸顔は母娘そっくりだった。
 一英は「痛いよ」と身をよじり、眼鏡を押し上げながら間仕切りのカーテンを覗き英博に声をかける。
「父さん、大丈夫?」
「けっ。わざわざ、おめぇが来るほどのこたねぇや」
 ベッドにあぐらしていた英博は口こそ以前と変わりないが、頭には包帯を巻き腕には点滴をし、全体的に数年前よりも小柄になったようだった。短く刈られた髪に目立つようになった白髪、気難しい顔の皺は少し深くなったようにも見える。その気丈な左手が「おい」と裕貴を招いた。
「おめぇはすぐに工場戻れ。今から言うことメモ取って、工場の連中に伝えろ」
「おっけー」
 携帯を取り出し、裕貴は父の指示する今後の製造内容をメモしていく。一英は弟の作業着に包まれた背中や、真剣に説明する父を見つめ、細く緊張した息を吐く。そして手持ち無沙汰にビジネスバッグを下ろし、今更ながらスーツの上着を脱いだりした。
 そっと部屋の入口あたりに移動していた洋子と美洋が、小声で囁きあう。
「ねぇ母さん。母さんは父さんの傍にいてあげて。工場のほうはあたしと裕貴でなんとかするから」
「でも、工場だって大変じゃないか」
「大丈夫よ。だって母さん帰ってきたら、その間父さんどうするの? 介助が必要なのに看護婦さん断ってるんでしょ、父さんのことだもん、絶対に母さんしか許さないわよ」
 一英はそんな二人の声を聞きながら、英博の麻痺している右腕を険しい表情で見やる。
 と、美洋も英博に呼ばれ、工場のことをなにやら携帯に打ち込み始めた。
「カズ、ちょっと」
 一英が不意に肩を叩かれて振り向くと、洋子が静かに手招きしていた。病室の外へ出た洋子は、隠れるように廊下の壁に引っついて一英を見上げる。
「カズ、急で本当に悪いんだけど、あんた今日配達やってくれないかい?」
「え……なんで俺?」
 一英が戸惑った眉を寄せる。
「ほら、配達にはミニバンとトラックとあるだろ? いつもはミニバンが裕貴でトラックが横井さんて従業員なんだけど、父さんいないぶん横井さんにも製造に張りついてもらわないといけないんだよ。そうすると裕貴がトラックに代わるから……母さんがミニバンやったっていいんだけど、父さんがあの通りだしねぇ……」
 洋子の視線につられた一英も、姉弟と頭を寄せ合っている英博に目をやる。
 いくら根っからの職人気質とはいえ、入院中くらいこだわりを抑えられないものか。暴君か独裁者か、そうでなければ二歳児みたいな英博に洋子が溜め息する。家族はみな頑固一徹な英博に対し、割り切り切って従順だった。
 だが一英は声を潜め、困るよと首を横に振る。
「母さんが世話しなくたって、看護婦がいるじゃない」
「無理だろ、父さん言い出したら聞かないもの」
「子供じゃないんだから」
 洋子は一英の腕をつかみ、病室から更に離れるよう引っ張る。
「このままじゃ、美洋がミニバンやるって言いかねないんだよ」
 妙な緊張感を漂わせる洋子に合わせ、一英も声を一層ひそめる。
「じゃあ姉ちゃんに頼んでよ」
「それができりゃ苦労ないだろ。どうしても頼めないかい?」
「なに話してんの?」
 突然かけられた美洋の声に二人がハッとして振り向く。病室から顔を出す美洋は鋭い視線で二人を見つめ、不穏な密談をしていたことが明白な後ろ姿ならあたし、目撃したから、と言いたげな足取りでこちらに近寄ってくる。その気迫に押され、洋子がごまかしの笑顔でたじろいだ。
「いやほら、今晩、なにが食べたいかって……」
「母さん。カズに工場仕事手伝わせるなんて酷よ」
「工場じゃないよ、配達。今日だけでいいんだよ、すぐに運転手どっかに頼むから。今日のところは他に頼める人がいないんだもの。ねぇカズ、本当に配達だけでいいから」
「よしなさいよ、母さん」
 美洋は静かながらもはっきりと強く母をたしなめる。そして見せつけるように一英の肩を強く叩いた。
「大丈夫よ、カズ。配達くらいあたしがやるんだから」
 美洋の並々ならぬ気合いに一英はほとんど頷かされ、洋子が悲鳴でも上げそうな顔で頭を抱える。
「美洋……あんたはもう、すぐそうやって!」
「母さんこそ!」
 洋子がはわはわしているうちに病室からは裕貴が出てきて、「俺が戻るまでは新規の注文を受け付けるな」という英博の声が聞こえてくる。一英は数年ぶりの父とはろくに話もしないまま、ぷりぷりしている美洋に引きずられて病院を後にした。
 美洋は一英をミニバンの後部座席へ押し込むと、自分は助手席に座り、運転手の裕貴に新小岩駅へ直行するよう強く言いつける。
「まったく、母さんたら信じらんないわよね! カズ、あんたはこのまま会社に戻りなさい、父さん無事だったんだから!」
 病院の駐車場を出る裕貴が、姉の剣幕を横目でチラチラとうかがって口を挟んだ。
「なぁ、姉ちゃん。俺いいこと思いついたかも。ミニバンはさぁ、姉ちゃんが荷物運ぶようにして、兄ちゃんはただ運転だけすれば――」
「駅ッ!」
「ぐはっ!」
 バンッと音を立て、裕貴の胸にきれいな水平チョップが入る。
 美洋の勢いに押され、ミニバンは大人しく環七を抜け蔵前を突き、今朝一英を拾ったのと同じ場所までやってきた。新小岩駅北口まで一本道となる自転車置き場の前で、美洋に急かされるようにして一英が車を降りる。助手席の窓から顔を出した美洋は、得意の菩薩スマイルを見せた。
「ごめんね、今日はこんなバタバタで。父さん退院したころ、またゆっくり遊びにおいでよ」
「うん……わかった」
 昔から姉には気を遣わせてばかりだなと思いながら、一英が頷く。反対に昔から一向に気を遣う気配のない裕貴が、これってドッキリでしょと言わんばかりの口調で手招いてきた。
「ねぇ、ちょっと、兄ちゃんマジで帰んの?」
 その問いに一英は、苦笑いして「じゃあな」と言う。
 菩薩から般若面へと瞬時に顔を変えた美洋につねられ、裕貴は悲痛な面持ちで発車していった。閉まっていく助手席の窓から「兄ちゃ〜〜ん!」という情けない嘆き声が遠ざかっていく。
 ミニバンを見送る一英は、熱い太陽に顔をしかめながら溜め息をついた。
 車の運転くらいならできないわけじゃない。だが工場を手伝えないのは事実だった。こんな時に家族を置いて帰ることには気が引けるが、工場は父の不在でこれから大忙しになるのだ。そんなところに自分のような役立たずがいても足手まといなだけ、それならいないほうがいい。
 姉の言うとおり、会社に戻るのが無難なはずだと踵を返した一英に、ふらふらと千鳥足のじいさんが近寄ってきた。
「よぉよぉ、一緒にのまねぇか?」
 むわっとした酒の臭気に気分を害し、一英は足早に駅へと歩き出す。ふと病院で見た、母の焦る顔が浮かんだ。
(でもなんであんなに母さんも裕貴もしつこかったんだろう。姉ちゃんが運転しちゃまずいのか? ハンドル握ると人が変わってすぐに警察沙汰、ってタイプでもないのに)
 カーレーサーか走り屋か、とにかく「今夜はぶっ飛ばすぜ、野郎ども!」と叫ぶ美洋が、荒々しくも高度なハンドルさばきで首都高を爆走する様子が目に浮かぶ。
 下らない妄想にくすりと笑った一英の前に、ベルをかき鳴らす一台の自転車が現れた。それは恐ろしく下手な運転のおばちゃんで、これぞ蛇行というファンタジックな動きを見せつける。一英が避けようと思った矢先、おばちゃんは見事、彼の足を二つの車輪で轢いていった。
「いッてぇ!」
 振り返る一英だが、おばちゃんは「ごめんねぇ〜」と言ったきり、止まったら転倒するから止まれないのだという物腰で走り去っていく。そこに再びの黒電話おばさんがやってきて、
「そうですよねぇ神様、わがまま言ってると、災いが起きるんですよね〜」
と、受話器に向かって囁く。
「……災い……?」
 チンという音とともに得体の知れない嫌な感覚を覚え、一英は急いで実家へと駆けていった。
 たつみ橋交差点を越え、親水公園を遡り、息を切らした一英がものの数分で実家の前にたどり着く。近隣の二階建て住宅より背の高い実家は、交差点に面した角地に建ち、外壁には『株式会社 井梶プレス』と書かれた大きな看板がかかげられていた。
 煮えあがるような苦しい息を抑え込み、物陰に隠れて覗くと、工場の駐車場ではミニバンの外から運転席に話しかける裕貴の姿があった。ハンドルを握る美洋が、裕貴の一言一言に頷いている。
 何やら了解したふうの美洋は、深呼吸をしてから決意してキーをひねるが、いなないたエンジン音に負け、貞子でも見た勢いで飛び上がる。美洋の驚きが裕貴に伝染し、姉弟は滑稽なまでに恐怖していた。
 半泣きで次の行動を尋ねてくる美洋に、裕貴は「落ち着け、焦るな」を連発する。
「いい? そこのギアをニュートラルにして、サイドブレーキを下げるでしょ? そう、そんでアクセルちょっと踏んでクラッチ上げて……」
 いきなりロデオのように飛び跳ねたミニバンに、二人の短い悲鳴がユニゾンする。その強烈な下手さ加減に、見ていた一英も思わず悲鳴を上げてしまっていた。
 一英が実家にいた頃はしっかり運転できていたはずの美洋だが、今や完璧なペーパードライバーに成り下がっていることが明白だった。あまりのひどさに先ほどの走り屋妄想を返せよという気分になる。
 裕貴が呆れかえって両手を腰に当てた。
「だから、兄ちゃん帰しちゃっていいのかって言ったでしょ? 今からでも呼び戻す? 土下座すれば手伝ってくれるって」
「いいの! あたしにだってできる! あたしこれでも成績優秀で教習所出たんだから!」
「それ、どんだけ昔の話だよ。姉ちゃんが事故ったら、もう俺だけじゃどうにもなんないぜ?」
 まったく折れようとしない美洋に裕貴は深々と溜め息する。結局最低限の指導の末、ミニバンはおぼつかない走りで公道へと出ていった。
「……おいおい、それ、行かせるか? 裕貴……!」
 ひどく心配になり一英は焦るが、裕貴はなんとか発進したミニバンを頭をかいて見送り、工場の従業員に呼ばれて仕事へと戻っていく。
 あいつのこういうところホントに非常識だよな、と言い捨てた一英が物陰から立ち上がる。
「あぁもう、しょうがねぇな! 今日だけだっ」
 一英はビジネスバッグとスーツの上着を工場の中に放り込むと、全力疾走してミニバンを追いかけていった。
 ミニバンは工場から直進した一つめの信号で捕まっていて、美洋が汗だくになりながら前のめりでハンドルを握っていた。その顔は、こんなことならたまには運転しておくんだったという後悔を物語っている。
 美洋が緩やかな上り坂で「右折右折」と呪文のように唱えるうち、信号が青になる。さぁ進めとクラッチを操作するが、無情にもガガガと空回る音がしてエンジンは停止してしまった。
 すうっとバックし始めた車体に悲鳴し、美洋が慌てて坂道発進を試みるも再びエンジンは止まる。後続車のクラクションが鳴らされる中、完全に狼狽した美洋は何とかしようと車を下り、後続車両に助けを求めた。
「すみません! これマニュアル車で――」
 額に片手を当てながら謝る美洋の後ろで、ミニバンのエンジンがかかる。ぎょっとした美洋が振り向くと、運転席の窓からは顔を出した一英がひらりと手を振り、ミニバンで颯爽と走り出すところだった。
「――カズ! なんで!」
 唖然とした中にも安堵の表情を浮かべる美洋に、後続車両の運転手が驚いて尋ねる。
「え? 何あれ盗難? 警察呼ぶ?」
「あ、いえいえ! 弟ですから!」
 一英は、申し訳なさそうに手を振る美洋をバックミラーで確認しながら、
「人轢いたりしたら、シャレになんないよ」
と額の汗を指で拭う。さっき自分が轢かれたのが自転車でよかったとさえ思っていた。





 
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