>NOVEL>葛飾、最後のピース

第12話
入れない場所
 

 夢うつつの心地よさに浸っていた脳がふと現在の時間を気にした途端、瞬時に目が覚める。一英の枕元の時計は午前八時半を指していた。慌てて跳ね起き、急いで着替えてリビングに飛び込む。
「カズ、ご飯は?」
「ごめん姉ちゃん、寝坊して!」
「やだ、寝坊してたの!」
 洗面所に飛び込んだ一英は、そこで慌ただしく身支度をしていた母にも朝の挨拶をし、それ以上の慌ただしさで歯磨きを済ます。一英が病院まで送って行こうかと言うと、洋子は急いでないからと首を振り、悪いけど配達のほう頼むよと一英の背を叩いた。
 一英は大きな足音を響かせながら、銀フレームの眼鏡をかけ、美洋が玄関に用意してくれてあった作業着の上着をひっつかんで外へと飛び出す。
 体が思い出した三段跳びで外階段を駆け下り駐車場へ着地すると、それは明らかに室内用のシルクガウンだろうがというライムグリーンの長い上着を羽織ったジャスティーが、ミニバンの陰から現れた。朝っぱらから一英の骨ばった眉間にしわが寄る。
 カチューシャで前髪を留めているジャスティーは今日もやっぱりスカートで、抹茶色のスカートから伸びる足元は、足を乗せる面がふさふさと人工芝になった奇妙なビーチサンダルを履き、またしてもヨレヨレのワンショルダーを肩から掛けている。
 一英はジャスティーの挨拶を無視し、ミニバンに積まれていた二十ほどの納品箱を数え始めた。後部座席に広げられていた葛飾区の地図にも目を通し、昨夜頼んでおいたように、裕貴が赤丸をつけてくれた工場の場所もざっと確認する。
 一英が運転席に座りエンジンをかけると、ジャスティーはそこが自分の指定席だとでも思っているのか、しれっとして助手席に乗り込んできた。
「あんたは来なくていい」
「いえ、行きます!」
 狭い車内で降りろ降りないと小競り合いをしていると、美洋の裕貴を探すような声がし、外階段をヒールが下りてくる足音が聞こえてきた。窓の外を見上げ、
「美洋さんに、ばれちゃいます!」
と叫んだジャスティーは、猫のように助手席から飛び退き運転席へとよじ登った。
 一英が嘘だろと思う間にジャスティーは無理やり運転席に足をねじ込むと、クラッチ上にあった一英の足を踏みにじり、そのままロケットスタートをかます。ハンドルを握った一英が悲鳴を上げた。
 タイヤが白煙と甲高い音を上げるほどの急発進に、階段の上から見下ろした美洋が「自分だって相当な運転してんじゃない」と鼻息を荒らげる。
「てめぇ! 危険なことしたら走行中でも捨てるっつったろ!」
「解りました、じゃあ指のストレッチをしておかなくっちゃ」
 舞い戻った助手席で手指を振ったり伸ばしたりしているジャスティーに、こいつその時は屋根にしがみつく気だと確信した一英は青ざめる。
 ジャスティーは助手席を倒して後部座席に移動すると、最後部に備え付けられた棚を勝手に物色し、そこに積まれた納品箱を確認する。ざっと納品箱を見回したジャスティーは、馴れ馴れしく一英の肩を叩いてきた。
「それじゃあ、小菅(こすげ)のモリタ製作所さんから行きましょうか」
「ふざけんな。近いほうから行くに決まってんだろ、確か奥戸の配達先があったはずだ」
 一英がさっき見た赤丸を思い出しながら、奥戸に向かってハンドルを切る。でもこれ……などと呟くジャスティーを、一英は口答えすんなと食い気味に一蹴した。取りつく島もないその態度にジャスティーが不服の頬を膨らませる。
「超ワンマン」
「いいから奥戸」
 口を尖らせたジャスティーはぶつぶつ言いながらも助手席に戻り、一番近い配達先への道案内を始めた。
 五分そこそこで奥戸に到着し、目的の工場前で一英がミニバンを降りる。するとジャスティーもすかさず助手席から飛び降り、今度はなんだよと言いたげな一英の腕を、生活指導の教員さながらに引っ張った。
「昨日言ったじゃないですか、スタイリッシュ禁止って! あーあー、よく見れば今日も小じゃれ横浜気取りなんだから。寝坊したくせに身だしなみは無難に整えてくるとか、何様のつもりですか。とりあえず作業着は忘れず着用して、そうだな、罰としてこのオサレベルトは没収です」
 ジャスティーは一英に作業着を羽織れと投げつけると、受け取るその腰から高かったベルトを目にもとまらぬ速さでシュッと抜き取る。
 一英が今朝選んだナチュラル素材の白シャツとカジュアルなダメージジーンズは、昨日タンスで見つけた自身の普段着で、ベルトも含め、すべて横浜にある気に入りの店で買ったものだった。
 どうせ作業着を羽織るなら、中に何を着てたって自由だろ。一英がそんな文句を言う前にジャスティーは納品箱を押しつけ、
「とっとと行ってきてください、今日も区内に詳しくなってもらいますよ!」
と吐き捨て助手席へと戻っていく。その憎らしい後ろ姿に、一英は今日こそ棄ててやると拳を握りしめた。
 納品箱を抱え怒りの足取りで事務所へと向かっていく一英を、助手席のジャスティーが静かな目で追う。それは真摯とも言えるほどの面持ちで、出てきた工場の人間と事務所の外でやり取りをする一英の様子に、溜め息をこらえるような深呼吸が漏れた。窓の下から吹き出るクーラーの風が、緩やかな襟足を揺らし、シルクのガウンを波打たせる。
 不意にバイブレーションの唸る音が聞こえ、ジャスティーがその出どころを振り返る。ポケットから滑り出てしまったのだろう、運転席のシートで一英の携帯が震えていた。だが震えはすぐに止まり、メール着信と思しきそれを一瞥しただけで、ジャスティーはまた窓の外へと視線を戻す。
 ところが、続けざまに次の着信があり、一英の携帯は震えては止まるのを延々と繰り返し始めた。顔をしかめたジャスティーが不快感も露わに運転席へ手を伸ばす。そして暴れる携帯を拾い上げ、なんの躊躇いもなく受信ボックスを開く。
「やっぱり。うるせぇ女だな、瑠奈」
 煙たそうな舌打ちをしたジャスティーは、窓の外を横目で確認しながら手早く返信のメールを打ち始める。
『今忙しいからメールしないで』
 それだけの本文で送信すると、その指はいま瑠奈から来たばかりの着信メール数件と自分の出した送信メールをすべて削除してしまう。そして携帯をたたみ、元の場所へ放ると、ジャスティーはミニバンを降りて自分も配達先の事務所へと向かった。
「まだですかー?」
「来んなよ。いまハンコ待ち」
 小さな日陰に立つ一英が、犬にでもするようにしっしと手を払う。構わずジャスティーが事務所を覗くと、一人のおばちゃんが慌てた様子で机をガサガサとあさりまわっていた。
「ごめんなさいね、ハンコすぐ見つけるからね! まったくあの人どこにしまったかねぇ!」
「あの、ハンコなければサインでも……」
「あ、中に入って待ってていいのよ、外は暑いでしょ!」
「いえ、お構いなく」
 まだ捜索を続けそうなおばちゃんに苦笑した一英は、事務所から少し離れ、住宅街を老人が散歩なんかしているだけの通りに目を移す。その後をついてきたジャスティーが、そっと一英の背中を覗き込んだ。
「いつも入らないんですね」
 その声掛けに、一英は答えなかった。「どこに」という言葉が抜けているのは明らかだが、あえてそれを問い返すこともしない。
「どうしてですか。お茶菓子とかもらえますよ」
 ぴったりと隣に並んできたジャスティーに無遠慮なほどパーソナルスペースを侵害され、一英は答える代りに「近ぇよ」と一歩離れる。そのせいで日陰から追い出されるが、ジャスティーはまた一歩近づき、
「どうしてですか」
と食い下がった。
「いいだろ、どうしてでも」
「どうしてですか」
「うるせぇな」
「どうしてですか」
「だからどうでもいいだろ、嫌いなんだよ、工場が」
「あぁそうなんですか、工場がお嫌い。それはまた、どうしてですか」
 嫌味な切り返しをしてくるジャスティーにイラッとするが、それよりも午前中から殺人的に照りつける太陽に萎え、一英は怒鳴ることを諦めて溜め息した。
「工場に入ると……汚れんだろ。工場の中は汚いし、臭いし、狭いし。おまけに危ない。だから嫌いなんだ。だから俺は入らないことにしてる」
 聞いておきながらそっぽを向いていたジャスティーがぼそりと言う。
「なんだか昨日も聞きましたね、それ。『汚くて、臭くて、狭くて、危ない』 あなたにとって、新小岩は町工場の拡大図ですか?」
 一英が目をすっと細め、なに言ってんだコイツという顔で見つめると、ジャスティーは無邪気な笑みを向け、工場の息子なのに工場に入らないなんて不思議だと言った。
 再びどうしてですかと問い詰めてきそうなジャスティーから、一英は逃げるように目をそらす。顎を引くその脳裏には、病院のベッドで横たわる、腕を失った公彦の姿がフラッシュバックしていた。
 一英の暗い横顔をジャスティーが目だけで見上げる。ハンコを押した書類を持ってきたおばちゃんの声で、一英は我に返った。





 
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