>NOVEL>葛飾、最後のピース

第14話
飲めない酒
 

『うまかったし、また同じ店で買ってきて』
 時計が十七時を回り、二日目の配達もなんとか無事終わることができた。配達さえ終われば助手席のナビになど用はない。さぁこんな変態とっとと降ろして帰宅するぞ、と思ったところに裕貴からそんなメールがきてしまい、一英はいま再びの居酒屋『盛の熊さん』に向かって歩いていた。
 別に来なくてもいいジャスティーがガウンをなびかせながらなぜか先を行き、昨日も通った幅一メートルほどの路地を、妙な区画ではみ出した建物に沿ってカクカクとあみだくじのように曲がっていく。
 行き止まりのように見えて、突き当たるとまだ横に繋がっている、そんな迷路を二人が縦になって歩いていると、背後から自転車の近寄ってくる気配がした。振り向いた一英の目が、よれたスウェット姿でボロい自転車を運転しているじいさんを捉える。
 酔っ払いだと一見して解った一英は無難によけたが、気づかずに歩くジャスティーへと、じいさんの自転車はふらふらと向かっていく。激しいベルが鳴ると同時に、一英は急いでジャスティーの腕を引いた。
「失礼」
 こんな狭い路地で自分からはよける気のない危険運転、それが故意なのかどうか定かでないが、気づかなかったジャスティーも悪いのだからと思い、一英はじいさんに謝る。振り向いたジャスティーが笑顔で頭を下げると、酒臭いじいさんは彼らに「けっ!」と一度だけ不満そうに突っかかり、とろい運転で走り去っていった。新小岩にもよくいる酔っ払いはやはり立石にもいるのかと、一英は馴染みのある苛立ちを露わにする。
「あぁいうのが、腹立つんだよ」
 ホームに降り立った時の悪臭と、そこらじゅうにポイ捨てされているゴミと、手を広げればすぐ酔っ払いか不審者に当たってしまうような新小岩を反芻し、一英は胸にむかつきが湧きあがるのを感じた。
 だがジャスティーは「そうですか?」と首を傾げただけで、まだたっぷりと日中の熱をはらむ風にさらさらとガウンを揺らし、盛の熊さんへ入っていく。
「種類はおまかせでいいんで、昨日くらいの量ください」
「あいよ」
 一英は惣菜が用意されるまでの間、手近なカウンターチェアに腰をかける。ジャスティーは一英の目の前に栓抜きを置き大将に声をかけると、厨房横にあるガラス製の冷蔵庫からオレンジジュースの瓶を二本取り出した。一英は渡された瓶を開け、そのまま口をつけて二口ほど飲む。同じように喉を潤したジャスティーが隣の席に腰をかけた。
 例の外人卓にはまた二人組の外人がいて、こちらを向いて座るイラン系の男が一英とジャスティーにフレンドリーな笑顔を見せる。ジャスティーは負けないくらいのスマイルとピースサインで応え、一英も仕方なく小さな会釈をする。
 よく見ると背を向けて座る連れの男は、昨日と違い中国系のようであった。中国なまりの英語が飛び、今日もあの地味な遊びをしている彼らの会話からは「オハナヂャヤ、ホソダ、カモメ」という単語が聞こえてきていた。
 店の入口がガラガラと開き、新たな客が入ってきた音がする。一英が何となく目をやると、白くエレガントなワイシャツをサマーウールのAラインスカートで着こなした『お姉さん』が暖簾をくぐってくるところだった。マダム風にカールした黒髪が品のある定番型ハイヒールとよく合っている。
 こんなところに女性客がおひとり様でくるなんてと思いながら、一際目を引く豊かな胸元につい視線を落とすと、顔を上げた彼女は怪しむような目でこちらをじっと見つめてきた。無関心を装って目をそらした一英だったが、お姉さんはヒールを響かせながらつかつかと近寄ってくる。
 もしかして出会って二秒でビンタされるのか。男が女性の胸元に視線をやるというのは、それほどまでにデンジャーなことなのか。ていうかこのお姉さん、判定が厳しすぎやしないか。あぁそうか、ここは葛飾。目についたものにはとりあえずケンカを売る葛飾だった。
 そう虚空を見つめながら納得した一英に、気の強そうな声がかけられる。
「ちょいと、お前さん」
「はい?」
 一英は無難で人当たりが良いと思われる笑顔を浮かべ、仁王立ちしたお姉さんを振り返る。だがやはり近づいてもお姉さんは美人で、その品定めするような凝視とぽってりとした唇が色っぽく、思わず目を奪われてしまった。その柔らかそうな唇がなんとも耳を疑う発言をする。
「お前さん、井梶プレスの息子かい?」
「な? え、えぇ?」
 即身元がばれたことに、一英は飲んでもいない酔いがさめるようだった。
「いや、あの、えぇ、はい…………実家……です」
 父の入院が知れ渡っていることといい、あなどれない葛飾コミュニティにおののいた一英だったが、あなどれないからこそ、ここは素直にしておこうと即断し事実を認める。するとお姉さんはふうんと、口元だけクールに笑み、
「大将、熊盛吾郎! 冷酒とお猪口ふたつ!」
と厨房を指さした。大将の威勢のいい返事が返る。
 彼女はジャスティーに気心の知れていそうな視線を向け、その肩を乱暴に小突いた。
「ジャスティー、お前さん、いいの連れてくるねぇ!」
「はい、新小岩で一番いいのです。井梶一英、二十七歳、僕と同い年です」
 てめぇの年齢など知ったこっちゃねぇ、つか何で俺の歳を知ってんだ、きもいと思いながらも、事実間違いではないので一英もぺこりと頭を下げる。
「あたしは西新小岩で小紋染めやってる、泉凛ってぇの」
「職人さん、すか……」
 凛が名の通りの凛々しさで一英の手を取り、強引に握手する。
 見た目は穏やかで優しそうなお姉さんなのに、喋るとどうも言葉づかいが古臭く、そのうえ精悍さがあるというか、妙に男っぽい律義さもある。そんな違和感の理由が、職人という肩書ですべて納得できた。
「あの、でもなんで俺のこと」
 父のことならまだしも、なぜ自分のことまで。そう訝しがる一英に、凛は無愛想に彼を指し返した。
「解っちゃいないねぇ。そんなもん、作業着で解るじゃないか。井梶英博さんは入院中で、息子が配達してるってぇ噂も聞いてんだよ、こっちは」
 一英が「あぁ」と感心し、作業着の銘を確かめる。
「井梶英博さんは大事に至らず、ただいまご容体も安定、十日ほどで退院できるってぇ聞いたけど、そいつぁ間違ぇねぇのかい? 井梶一英」
「えぇ……まぁ、その通りです」
 凛がそいつぁよかったと安堵の溜め息をついた。なんだか落語か時代劇でしか聞かないような言い回しが連発し、お姉さんというよりむしろ御姐さん、この人ももしかして変な人なのではと一英が思い始める。
 カウンターに大将の声と毛むくじゃらの腕が伸び、ガラス製の涼しげな徳利と猪口が二つずつ、トントンっと置かれた。
「よし、乾杯するよ、乾杯っ」
 見た目は完璧にエレガントで美人の凛が、颯爽と猪口を取り上げ、流れるようにして一英の手に乗せる。そして気っ風のいい笑顔とともに徳利を差し出した。
 一英はなぜ杯を交わすのか解らず断ろうとするが、かまわず凛はとくとくと冷酒を注ぎ、猪口を空けるよう、細い指でささと促してくる。
「いや、その……」
 戸惑い、溢れそうな猪口に目を落とした一英が、ふと厳しい表情を浮かべる。その横顔をジャスティーがちらりと見る。一英は湧き出る嫌悪をなんとか隠しながら、猪口を手に乾杯を待っている凛に顔を上げた。
「すみません、俺――」
「おーっとっと!」
 突然手を伸ばしたジャスティーが、横槍とも言える速度で一英から猪口を奪い取る。勢いでこぼれた冷酒が濡らす指先を舐めながら、ジャスティーは言葉を遮られた一英にへらへらと笑った。
「じゃあ、僭越ながら僕が代わりにいただきます! お凛さんゴメンね! この人、車なんです」
「なんだい、無粋だねぇ。そんなもん歩いて帰りゃいいだろ、井梶一英」
 一英は眉間にしわを寄せ、やんややんやで凛と乾杯するジャスティーを怪訝そうに見やった。凛のフルネームで呼んでくる対人センスも気になるが、ジャスティーに酒を奪われたことのほうがもっと気になる。
 確かに車で来ているし、だからジャスティーは気を利かせたのだろうと思ってみるが、なぜだか訳知り顔でかばわれたような印象が拭えなかった。
 ぐいと飲み干したジャスティーのにやけ顔が、酒の味で更に崩れる。
「あああ、いくらでも飲めそうな旨い酒ですよ! キリリとした辛味の後に甘い風味が広がっていきます」
「ああ、そう」
 一英はこれぞ生返事というような相槌をし、何か企んでいるのではないかとジャスティーの様子をうかがった。だがうまそうな飲みっぷりを見ているうちに、こいつ、ただ飲みたかっただけかもなと思い直す。
 立ったまま猪口を煽っている凛に視線を戻すと、彼女はこちらを見ながら満足げに目を細めた。
「なんで俺と乾杯なんですか?」
 一英の問いに凛が柔らかく笑う。
「もう二十年も前のことだけどさぁ、あたしの師匠が井梶英博さんにお世話になったことがあってねぇ」
「世話?」
「こんな部品、作ってもらえるたぁ思っちゃいなかった、あの人がいたから俺ァ今もこうして仕事ができんだ、感謝してもしきれねぇよ、てめぇらも足向けて寝んじゃねぇぞって、しょっちゅう聞かされてたもんだから。つい嬉しくってねぇ」
 本当に嬉しそうに微笑みながら、もう一杯、酒を猪口に注いだ凛は、一英の隣に腰を下ろす。まるで風呂上りのような、華やかなシャンプーの匂いがした。
 そこへ話の前後も無関係に、いつの間にかカラオケのリモコンを手にしていたジャスティーが駆け寄ってくる。
「ねぇヒーローさん、聞いてください! 僕の歌!」
 聞かねぇよ、うるせぇな、と思わず言いかけるが、それは女性の前であまりに下品だろうと躊躇し、一英は「いま話してるから」と穏やかに応える。振り向くと、ジャスティーの顔面が思った以上に迫っていて、一英は椅子から飛びのいた。
「顔近づけんのやめろっつってんだろ!」
 怒鳴ってしまったことにハッとする一英に、わざとらしく口元に手を当てたジャスティーが「おーこわ!」と眉を八の字にする。凛も威勢がいいじゃないかと笑った。
 一英はうやむやに謝りながら、ジャスティーと関わっているだけで粗暴になり、口も悪くなり、新小岩丸出しになってしまう自分を嫌悪した。
 軽やかなピアノのイントロが流れ出し、ジャスティーがマイクに飛びついていく。うなだれた一英の肩を叩き、凛がお品書きを開いて見せた。
「――井梶一英、なに注文すんだい? 飲めないんだったら食べようじゃないか、今日はあたしが奢るから好きに頼みな!」
「いやそんな、困ります!」
 よりによってこんなところで父の客に出会うと思わなかった一英は、とっさに凛を制す。帰るなら今だ。これ以上長居すれば、相手も職人、話は当然工場関連のものになるだろう。自分がそれに耐えられるとは到底思えなかった。
 歌い始めたジャスティーの悦に入った少年ボイスが、心配などいらないのだから誰かのもとに届くまでそれをやめるな、といった内容の応援ソングを店中に溢れかえらせる。そこにタイミングよく、大将からテイクアウトの惣菜が差し出され、一英は財布を取り出しながらカラオケに負けぬよう声を張った。
「家族が腹すかせて待ってるんで、これ持って帰らないと! また、今度ってことでいいすか!」
「ったく、腰折るねぇ! あたしのこの気持ちはどうすりゃいいんだい! 絶対だよ? 次は絶対奢らせんだよ、井梶一英!」
 凛に軽く頭を下げ、急いで精算を済ませた一英は「もう二度と来ないけど」と呟きながら逃げるように店を後にする。一英の閉めた引き戸を指し、凛がジャスティーを手招いた。
「いいのかい? あれ、お前さんが前から言ってた『ヒーロー』ってやつなんだろ? 行っちまったよ?」
「いいんです、今日のところは! 最終的には僕の愛が勝つ、ということが伝わっただけで、すべて計画通りです!」
 カラオケをBGMに不敵な笑みを浮かべるジャスティーに、凛が「ちっとも伝わっちゃないだろ」と眉を下げる。

 ◇

 また新小岩駅行のバスを追いかけ帰宅した一英は、道さえ覚えればジャスティーの世話になることもないはずだと、夕食後は自室にこもり葛飾区の地図に食い入っていた。
 ひととおり地図を頭に叩き込むとベッドに座り、毎日の約束である就寝前の電話を瑠奈にかける。だが何度呼び出し音が鳴っても、瑠奈が出る気配はなかった。数度かけ直しても繋がらず、一英はまさかもう寝てしまったのではと壁時計を見上げる。針は二十二時を指していた。
「研修で疲れてんのかもな」
 すやすやと寝入ってしまっている瑠奈の顔を思い描き、誰だって慣れないことは疲れるものだと背伸びする。
「あーっ、俺も疲れた!」
 電気を消しベッドに倒れ込んだ一英は、メールに「もう寝るね、おやすみ」とだけ記して送信し、そのまま吸い込まれるように目蓋を閉じた。





 
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