>NOVEL>葛飾、最後のピース

第20話
仕組まれたマリッジブルー
 

 翌日の土曜日。父が朝食や朝の診察などを終え、ひと段落しただろう頃を見計らい、一英は姉弟三人で父の病室を訪れていた。誰に気を遣うわけでもない個室で、家族五人はゆったりと、とりとめない話をしながら過ごす。実に懐かしく、数年ぶりの団らんの時間が流れていた。
 ベッドにあぐらをかく英博が、数日仕事から離れたせいか、いつもの気難しさが幾分抜けた柔らかい声で、そういやぁと一英のほうを見た。
「すまなかったな、お前にまで配達手伝わせちまって」
 ベッドの足元で椅子に腰かけていた一英は、洋子から冷えた烏龍茶のペットボトルを渡されながら「いいよ。こんな時くらい」と眉を下げた。
「しかしお前、よく盆休みの前倒しなんかできたな」
「うちの会社、社員思いでね。事情話せば解ってくれるんだ」
 そうかと頷いた英博には、ほんのり湯気の立つ湯呑みがテーブルに置かれる。パキパキとペットボトルを開栓する一英に洋子はかりんとうを差し出した。
 英博が、若い頃から落ちくぼんでいる一重まぶたを小指の腹でかき、再びそういやぁと言う。
「仕事のほうはどうなんだ? うまくいってるか?」
「うん、俺は順調。工場のほうこそどうなの。最近はリーマンショックで大変なんじゃない?」
「まぁな。町山さんもこないだ廃業して、はろーわーくってとこで相談したっつってたな。なんだかよく解らねぇが、テレビを押すと色々動くってよ」
「それテレビじゃない、パソコンだよ」
「知らねぇけどよ」
 小さくに笑った父につられ、一英も微笑む。父の笑顔は一英にとって特別なものだった。
 子供の頃はいつも怒鳴られてばかりで、笑顔などほとんど向けられた記憶がない。父が笑顔を見せるのは、決まって家族以外の人間にだったことを思い出す。
 父は根っからの職人気質で気難しいところがあり、仕事に関しては誰よりも厳しいのだが、それゆえ、皆がよいパフォーマンスをできるよう、職場の雰囲気をポジティブに保つための配慮を欠かさない人間だった。
 気の利いた冗談を言ったり馬鹿笑いで盛り上げるタイプではないが、悩んでいる者がいれば、その内容が仕事でもプライベートでも親身になって話を聞くし、一緒になって解決策を探そうとする。自分で力になれることならすすんで手を貸したりもする。そういう人柄を知る人々は、こぞって父を誠実な人間と認識し、慕っていた。
 あの頃の自分が怒鳴られてばかりだったのは、まだ子供で馬鹿なことばかりするからであって、大人になった今こうして父から笑顔を与えられるのは、それが一人前として認められた証のように思えた。
 他愛もないことをぽつぽつと話しながら、いつの間にか退席した美洋と裕貴が、自分と両親を三人きりにし邪魔もしてこないことに気づく。美洋の「父さんも母さんも嬉しいはずよ」という言葉が思い出された。
 途切れた会話にふと瑠奈の笑顔がよぎり、何か焦るような気持ちに押された一英は、改まって「父さん、母さん」と切り出し姿勢を正す。
「こんな時に言うことじゃないかもしれないんだけど……今度、父さんが退院して落ち着いたら、会わせたい人がいるんだ」
 その言葉を飲み込むのに両親は一瞬の間を要したが、洋子がすぐにふわっとした笑顔をほころばせた。
「あんた、結婚考えてるのかい! あらぁ! お付き合いしてる人がいるって裕貴から聞いてたけど、まぁまぁまぁ!」
 歓声を上げ落ち着かない様子で感激する母と、言葉少なの笑顔で「そうか」と頷くだけの父。それを見て一英は、初めて親孝行できたような心持ちになった。
 そこへポケットの携帯が震え、画面を見た一英が驚いて立ち上がる。両親の視線に照れくさそうに笑った一英は、すぐ戻ると言って病室を後にした。
 閉まった扉に洋子がほうと溜め息し「あの子が結婚なんてねぇ」と目尻を垂らす。こんな嬉しいことないわという言葉に、英博も低く笑った。
 だが、いそいそと枕元のタオルをたたみ始めた洋子は、ふと表情を曇らせぽつりと呟く。
「あの子が工場継げればよかったのにねぇ……」
「やめねぇか」
 すぐに怒ったような、諭すような英博の声にたしなめられ、洋子はハッと口元を抑え謝った。そして深々と溜め息する。
「言ってもしょうがないのは解ってるんですけどねぇ、どうしても、あの事故さえなかったらって思っちゃうんですよ。……あの子、まだ気にしてんですかねぇ。いつまでも起きたことを悔やんでたって始まらないのに」
「馬鹿野郎、起きた事実は変えられねぇから苦しいんじゃねぇか。お前こそ悔やんでどうする」
 本当ですねと再び息をつき、洋子はきれいな病室を更に片し始めた。そっと歯を食いしばった英博が窓の外を黙って眺める。

 ◇

 瑠奈からの着信に応えた一英は、病院の屋上へとやって来ていた。
 ここ数日のことからかなり怒っているのだろうと予想していたが、電話に出てみるとそんな様子もなく、いつもと変わらないような瑠奈の声が出迎えた。それでも今一度、夏季休暇が潰れたことを詫びると、瑠奈は
「怒ってたわけじゃないよ。毎日疲れちゃって、寝ちゃってただけなの。ごめんね」
と優しく笑った。
 胸を撫で下ろした一英は考えすぎの自分を笑い、屋上の鉄柵へと寄りかかる。だがすぐに火傷しそうな熱さに飛び上がり、こそこそと小さな日陰に逃げ込んだ。
 久々に繋がった二人の会話は、そこそこの長電話となった。初めは研修の様子などを聞いていたのだが、ふと黙った瑠奈から不意の質問が飛び出す。
「……ねぇ、カズくんの実家ってなんのお仕事してるの?」
 一英は思わず愛想笑いして、口ごもった。
「うーん、なんて言えばいいのかな。地元に根付いた、中小企業的な……商売っていうか」
 嘘はつきたくないが、本当のこともまだ言いたくない。結婚するのだからいつかは話さなければならないのだけど、それは両親と瑠奈を合わせてから、という思いが一英の中にはあった。
 実家が新小岩にあることも、町工場であることも、今まで瑠奈には言ったことがなく、瑠奈もそれを深くは追及してこなかった。だから今も、やりすごせたはずと一英は思ったのだが、瑠奈はふうんと鼻を鳴らし、もう一度尋ねてくる。
「カズくんの実家ってどこにあるの?」
「え、なんで? どうしたの急に」
 故郷が新小岩だということは、一番口にしたくなかった。自分の故郷嫌いを解ってくれていたはずの瑠奈なのに、どうして急にこんなことに食いつくのだろう。いつもならすぐに違う話題に移っていけるはずのパターンに一英は眉を寄せ、瑠奈の返答に耳を澄ませた。
 瑠奈はそんな一英の緊張など知ってか知らずか、人差し指を顎に当てているのが見えるような声で「うーん」と焦らす。
「だってルナ、なんだかカズくんのお父さんのこと心配になっちゃったの。今日土曜だし、これからお見舞いに行こうかなって思って。ルナもカズくんのお仕事、一緒に手伝ってあげたい」
 わざわざ名古屋から出向こうとしている瑠奈に、思わず安堵の笑いが漏れた。自分も瑠奈のことが心配で名古屋へ行こうと考えていたことを思い出し、一英は瑠奈の優しさにほっと和む。
「ありがとう。でも大丈夫だよ。手伝いはもう終わりだし、親父のこと見舞ってもどうせすぐに退院するんだから。ゆっくりしてて」
「え〜? ルナそっち行くから、住所教えてよぉ」
「いいって。瑠奈が疲れちゃうよ。まだ来週も研修あるでしょ」
「大丈夫、だってここ日本だよ? 何県だってすぐに行ってすぐに帰ってこれるもん」
 本気で見舞いに来てくれようとしている瑠奈をかわいいなと思い、一英がくすくす笑う。すると瑠奈は、突然怒ったような声で「なんで?」と一英の耳を突き刺した。
「どうして教えてくれないの? ルナ、カズくんの実家が何県かも知らないんだよ? こんなの変だと思わない? それともルナに来てほしくないの?」
 急にピリピリとした空気が漂い、戸惑った一英が「そんなんじゃないよ」と慌てる。「じゃあ教えて」と続けて切り込む瑠奈に負け、一英はしばらく黙ったあと「今度ちゃんと教えるから」と静かに頷いた。
「どうして今じゃないの」
「いま教えられないのは、瑠奈が一人で来たら困るからなんだ。心配なんだよ。ちょっと……治安の良くない街だからさ」
 その言葉に瑠奈は押し黙り、真意を探るような息遣いが聞こえた。沈黙に気まずくなった一英がなるべく明るい声を出す。
「とにかく俺、今夜のうちに横浜に帰るんだ。うちの両親には今度会わせたい人がいるって告知しといたから、親父が退院して落ち着いたら会ってくれる? その時には実家の場所も教えるよ」
 機嫌が直ったのかどうかまでは解らないが、瑠奈は小さな声でわかったと言い、また電話するからという一英の言葉にも「待ってるね」と電話を切った。
 暗くなった画面から険しい表情を上げ、ホテルの窓から見える名古屋城を瑠奈が見つめる。瑠奈はしばし考えたのち、別の番号へと発信した。数度の呼び出し音のあと、和やかな声で朔田が出る。
 久しぶりだね、最近どうしてるの、などと常套句から入る朔田に、瑠奈は挨拶の言葉もなく直球の本題をぶつける。
「カズくんが浮気してる気がするんです」
 唐突な内容に仰天した朔田が、一英は夏季休暇を前倒ししたのだと告げ、報告されたその理由も言って聞かす。朔田が丁寧な説明のあと「普通にお父さんの具合が悪いみたいだよ」と言うが、瑠奈は「でも変なの」と頑なに首を横に振った。
「朔田さん、カズくんの実家がどこにあるか知ってます?」
「そういや知らないけど……」
「実家が何してるかは?」
「知らないな」
 ほら、と瑠奈が語気を強める。
「変じゃないですか? もしほんとに実家の手伝いしてるとしても、いつものカズくんならマメに返信くれるはずなんです。それが全然冷たくて……よそよそしいっていうか、きっと私から連絡くるのが困る状況にいるんです。地元で付き合ってた元カノとかに出会っちゃって、再燃しちゃってるなんてことないですか!?」
「いやそれは、考えすぎだよ。井梶、どう見ても瑠奈ちゃんひとすじだよ? そんな裏をかくようなことするやつじゃないと思うけどな……」
 それでも瑠奈がおかしいと連発すると、朔田は瑠奈ちゃんのほうこそちょっと変だよと言い、いつもそんなネガティブな性格じゃないんだから、もしかしたらマリッジブルーなんじゃないかと言った。
 デリカシーのない朔田の答えに、瑠奈が「もう!」と地団駄する。
「私は真面目に悩んでるんです! 朔田さんの役立たず!」
 一方的にぶちっと電話を切った瑠奈が、苛立った足取りで窓辺に近寄る。その大きな目は地平近くの入道雲を見据え、細い手がドンと窓ガラスを叩いた。

 ◇

 同じ日の夜、盛の熊さんにはいつものように常連客たちの姿があった。実は六人掛けな外人卓には今日もインターナショナルな二人組が座り、壁際の四人掛けテーブルには凛、恵、絵梨香が座る。
 大将に代わりせっせと給仕をしていたジャスティーを、既に酔っ払っている凛がビシッと指差した。
「だから、井梶一英を連れてこいってぇのよ、ジャスティー! あたしゃ酒を、酒を奢ってやりたかったんだ! どうして一滴も飲まずに、この店を出るかねぇ!」
 凛が転がしてしまった箸を絵梨香が拾い、仕方ないじゃないと笑う。凛の隣で頬杖していた恵もつまらなそうに箸で小鉢をかき回した。
「なんていうか、完璧だったよねー、ヒーたんて。イケメンで、礼儀正しくて、笑顔も爽やかでさー」
 その言葉に「須藤恵、ああいうのがタイプだっけ?」と凛が振り向くと、ジャスティーが焼き鳥の皿をテーブルに置きながら「大企業に勤めてて、仕事もできて、結婚間近の彼女もいます」と付け足す。非の打ちどころがない一英の人物像に、恵がケラケラと笑った。
「ほーんと完璧! 叩いても埃が落ちないって、ああいう男のこと言うのかなー!」
 ジャスティーが空いた皿をカウンターに下げ、そこで甘ったるいカクテルを煽りながら、
「完璧な人なんていません」
と誰に言うでもなく口にする。そのどこかツンケンしたジャスティーの横顔を見た絵梨香が、ふうと溜め息をつき、空いたグラスを手に近づいていく。
「井梶君、二度と戻る気なさそうだった。このまま会えなくなるほうが、無難なんじゃない?」
 絵梨香がグラスをカウンターに置きながらそう言うと、ジャスティーはさも不可解そうに眉を寄せた。
「俺は明日も会う予定だけど?」
「でも配達は終わったって……」
 覗き込んでくる絵梨香にふふんと鼻を鳴らし、ジャスティーは「配達じゃなくたって会えんだよ」と言い切った。





 
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