>NOVEL>葛飾、最後のピース>ジャスティー編

第2話
最高の宝物
 

 俺の両親に、似ているところはひとつもなかった。
 たとえば、口数。たとえば、調子。
 母は感情の起伏が激しく、ご機嫌な時は饒舌でへらへらとした笑顔を絶やさない。だがいったん機嫌を損ねると、見るからにふてくされて、家事を全部投げ出したり、家出をしたりする。一番厄介なのは、父がなだめるまで絶対に機嫌を直さないことだった。
 一方の父は、この辺の職人にしては珍しく、粗野でも乱暴でもなかった。顔こそ強面でイグアナみたいな印象だったが、草食のそれ同様、無口で大人しく、真面目が取り柄みたいな男だったはずだ。普段から仕事に熱心で、話す時もさほど表情を変えなかった。彼が怒った場面は記憶にない。
 彼らはどこまでも正反対だったが、どうしてか上手くいっていた。
 つまり五歳になった頃の俺には、きれいな母と朴訥な父と、小さな妹もいて、母の笑い声あふれる家庭は円満だった。
 そんなある日、俺は保育園で友達とケンカをした。
 普段は明るく温厚な俺が突然殴りかかっていったので、驚いた保母が急いで止めにきたことを覚えている。
 ケンカの原因を聞かれても、俺も相手もなにも言わなかった。相手のほうはケンカを吹っ掛けた側だから言いづらかったのかもしれないが、俺はもう、まともに話せないほど頭に来ていて、理由など口に出したくもなかったのだ。
「明日もまた仲良く遊ぼうね?」
 夕方、母が迎えに来た園門で、保母は子供向けの笑顔で俺にそう言った。頭上を通り過ぎる大人の会話を聞き流していた俺は、母の陰に隠れ、ただふてくされた顔を返す。
 園からの帰り道には小雨が降っていて、俺は黙ったまま、ぶかぶかのレインコートで水たまりを蹴って歩いていた。やけになって差しもしない傘を振り回していると、つつつっと寄ってきた母が俺のうなじにサッと手を伸ばす。
「へーんしん!」
 レインコートのフードが不意に被せられ、視界を失っている間に傘を取り上げられた。笑みを浮かべた母は俺の前を先導し、傘でガードレールを叩きながら歩いて行く。母の態度はいつもと変わりなかったが、ケンカしてごめんなさいとも言えず、俺は仏頂面で後を追う。
 一定のリズムでカンカンと鳴るガードレールは、母の足音と完全にシンクロしていた。聞いているうちに、俺もそれを真似して歩いていたことに気づく。フードを押し上げると、いつの間にか雨は上がっていた。
 母は、あの保母からどんな説明を受けたのだろう。解らないが、前を行く背は穏やかで、ケンカのことは何ひとつ聞いてこない。
 いたたまれなくなった俺は、自ら口を開く。
「ねぇおかあさん」
「んー?」
「ふしだらってなに? りこんってなに? タツヤがそう言った。おまえのかあちゃんふしだら女、りこんするに決まってるって」
 それを聞いた母は驚いて振り返ったが、すぐに吹き出して笑った。
「やだァヨシくん! あんた、それでケンカしたの?」
 おかしそうにころころ笑う母を見ていると、毒気を抜かれそうになる。不思議なもので、言葉の意味は解らなくとも、母が侮辱されたことだけは子供心にもすぐ察しがついた。だからぶっ飛ばしてやったのだ。
 だが侮辱された当の本人は、なんのダメージも受けずケロッとして言う。
「そんなことで怒んなくていいわよ。ヨシくん悪くないんだし、忘れちゃいなさい」
「でもお友だちとケンカするのはよくないって、せんせいが」
 俺は今一度、自分を正当化しようと、フンとふてくされて見せた。それは機嫌を損ねた母がいつもやる仕草で、本人相手に俺の意思表示は的確に伝わる。
「その顔! かーわいいんだから!」
「かわいくない!」
 すると母は愛嬌半分で謝り、ふわりと鳥が降り立つようにしゃがみ込んだ。そして俺の手を取ると、自分の手をその上に重ねる。母のまなざしは笑みを湛えていたが、からかうわけでもなく、ただ深い温かさだけが感じられた。
「解ってるよ。ヨシくんはただケンカしたんじゃない。お母さんを守るために、戦ってくれたんだよね?」
 母親に解ってもらえること。
 子供にとって、それ以上に望むものなどない。
 俺はめちゃくちゃ笑顔になりそうなのを我慢して、小鼻に変なしわを寄せながらかっこ良く頷いた。愛されていると実感するには十分な温もりが、つないだ手を伝わって広がっていく。
 ありがとうと頭を撫でてくる母を見つめ、美人だな、と俺は思っていた。もしかすると、ふしだらとは美人を指す言葉かもしれない、とも思っていた。
『母ちゃん、美人だろ。それだけは自慢していいぞ』
 いつもそう言っていたのは父だった。一緒に風呂に入るたび、二人だけの秘密だと言って耳打ちされるその言葉は、なぜか誇らしく、少しこそばゆかったのに。その日はタツヤの一言で、大事なものが土足で踏みにじられてしまったような気がしていた。
「せんせいが、ケンカりょーせいばい。ふたりともあやまって仲なおりねって言うんだ。でもおれはそんなのいやだったんだ」
「へぇ、ヨシくんって名前負けしてないのねぇ」
「名まえまけって?」
「名前に負けるってことよ。ヨシくんの名前は正義(せいぎ)って書くじゃない? でもヨシくんは正義(せいぎ)って意味に負けてないでしょ? 負けてないんだから、名前のとおりねってこと。ヨシくんは正義(せいぎ)そのもの、ほんとのヒーローね、カッコイイねって言ってるの」
 俺は妙に納得して頷く。やはり俺は間違ってなかったのだ。だんだんと、俺が正義のヒーローで、タツヤが悪の化身だったように思えてきていた。
 お母さんのことは絶対に俺が守るんだ。
 胸に湧いたその決意は、雲間から覗き始めた太陽と同じように、風に煽られてなお輝きを増す。
「お父さんとヨシくん、二人の男の人に守られて、お母さんってば幸せ者だわ。マユちゃんのことも、ちゃあんと守ってあげてね」
 そう笑ってもう一度俺の頭を撫でた母は、繋いだ手を離さぬまま、立ち上がる。そして晴れてきた空を見上げると、不意に目を輝かせ、俺の手をグッと引いた。
「走って帰ろうよ!」
 呆気にとられる間もなくぐんぐんと引っ張られ、雨上りの水たまりを二人して駆け抜ける。
 玄関に着いても母の勢いは緩まず、靴も脱ぎっぱなし、カバンもその辺に放り投げ、急な階段を駆け上がっていった。居間では妹が昼寝をしていて、やっと寝かしつけたのだからと祖母にたしなめられたが、母は調子よく笑って聞き流すだけだった。
「ねぇ。ヨシくんに、お母さんの宝もの見せてあげるわ」
 いつになく嬉しそうな母は、今となってはレトロポップとしか言いようのないオレンジの花柄を基調とした鏡台から、アクセサリーケースを取り出した。そこから見つけた一枚の十円玉をつまみあげ、俺の手の平に載せてくる。
「ほらこれ、ギザ十って言うの。もう作ってないから、とっても珍しいのよ。すっごいお宝なんですって」
「おたから?」
「そう。結婚する前、お父さんがお母さんにくれたのよ」
 それは父の生年である昭和三十三年に作られた十円玉で、ギザ十としては最後の製造年製でもあった。今思えば、とても珍しいお宝だなんて、ずいぶん盛ってくれたものだが、その時の俺は素直にそう信じた。
 二人の出会いはシンナーくさい一角だったと、母からよく聞かされていたことを思い出す。
 母は瀬ノ塚塗装の一人娘で、父はそこで働いていた職人だった。
 十九で入社した父はその頃、工場内で最も若く、一方的に惚れ込んだのは母のほうだったという。母は学生時代から思いを寄せていて、猛アピールの末に結婚したそうだ。今でも幼さの目立つ彼女だが、そのアピールぶりは、傍目にも男が気の毒になるほど執拗な大胆さだったらしい。
 母は俺の手の上に乗る十円玉を愛おしく見つめ、湧き出す含み笑いを鼻に抜く。
「なんでお父さんが、これをお母さんにくれたと思う?」
「わかんない」
「お母さんのことがとっても好きだからよ。これは二人の愛の証なの」
 そういった母は、まっさらな和紙が色水を吸い込むように頬を朱に染める。花がほころぶような美を見て、俺は嬉しくて泣きそうになった。
 父が母のことをとても好き。母も父のことがとても好き。
 たったそれだけの事実は、どうしてああも照れくさいのか。まるで自分が誉められたようで、照れ隠しに十円のギザギザを引っかいていると、母はこんなことを言った。
「それ、ヒーローの証としてヨシくんにあげるわ」
 そんな大事な宝物をもらっていいのかと驚く俺に、彼女は清らかに頷く。
「もちろんよ。あなたはお父さんとお母さんの、宝物なんだから」
 窓から西日が差しこみ、ひなびた和室は柔らかな色に染まっていた。さっきまでの雨が嘘だったような光を浴び、母の笑顔は黄金色に輝く。
 あれほどまでに女神のような笑みを成す女を、俺はほかに知らない。
 極上と称していいその笑顔は、幸せに満ち溢れ、あたたかな母の愛で俺を称えてくれていた。
 戯れにぎゅうっと抱きしめられれば、ただ愛しくて、嬉しくて、それを伝えるためだけに俺も身をよじって笑った。
 以来その十円玉は俺の宝物になり、この日のことは母の極上の笑顔とともに忘れがたい記憶として残っている。
 だがそれは俺にとって、『母』を見た最後の記憶となった。





 
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