>NOVEL>葛飾、最後のピース>ジャスティー編

第3話
十円で引き受けた難題
 

 その後まもなく、愛し合っていたはずの両親が離婚し、円満だった俺の家庭はいびつに欠けた。タツヤとのケンカからは、恐らく半年も経っていなかっただろう。俺と妹は母方に引き取られ、母とともに瀬ノ塚の実家で暮らすことになる。
 引き取られたとは言っても、祖父母の家は俺と妹にとって、半分自宅みたいなところだった。
 もともと、両親とも瀬ノ塚塗装で働いていたから、俺たち家族は毎日のように瀬ノ塚家に入り浸っていたのだ。俺が保育園から帰るのも瀬ノ塚家だったし、工場の終業後は、三世代で夕飯を共にしてから帰るのが常だった。
 だから初めは、今までと何が違うのか解らなかった。
 だがすぐに、違いは歴然とする。
 両親が離婚した翌日、真面目だった父は工場を辞めどこかに消えてしまい、明るかった母は別人のように荒み始めた。
 毎日泣き通していた母の目は、いつも腫れていて。元来色白だったのに、顔中ただれたように赤らんでいた。母が病人みたいな顔で『氷雨』という曲ばかりを口ずさむ。それを見ていた俺の胸は、いつも心細く、痛んでいた。
 数週間したある日。衝動的に俺の手を引き、終業後の工場へと駆け込んだ母は、父の使っていた機材や道具、塗料などを、手当たり次第に倒してぐちゃぐちゃにしてしまった。
「おかあさん、怒らないで!」
 母の豹変ぶりが恐ろしくて、不安で、俺は泣きながら懇願する。
 この肩を強くつかみ激しく揺さぶってきた母は、泣き濡れた頬に黒髪を張りつけ声を震わせていた。
「あたしにはもう、ヨシくんしかいないの! あたしを愛してくれる男の人はヨシくんしかいないの! あたしを捨てないでね、嫌わないでね。ヨシくんが嫌ったら、あたしもう死ぬよりほかないわ……ほら見なさい、あそこに首吊って死ぬのよ!」
 母が指したのは薄暗い工場の天井から吊るされた鎖で、あれがどんなに重いものでも高く高く上げてしまうことは俺だって知っていた。首吊りは知らなくても、あの鎖をどうにかすれば母が死んでしまうことは理解できた。
「おかあさん、死んじゃやだ!」
 死ぬなんて言葉、母がどこまで本気だったかは知らないが、その時の俺はそれはもうとんでもないパニックになり、しゃくりあげて号泣した。
 母も大声で泣きわめき、崩れるように抱きついてくる。
「なんでアイツはあたしを捨てたの! なんであたしが、こんなふうに捨てられなきゃなんなかったのよ!」
 離婚理由は誰にも教えてもらえなかった。誰も教えてはくれなかった。
 今でも、よく父が母をたしなめていたことばかり思い出す。
「なんでお前はいつもそう、へらへらと……ふざけるのもいい加減にしなさい、こっちは真面目に話してるんだぞ」
「ごめんなさい、ふざけてなんかないの。こんな顔なのよ、生まれた時からこんな顔なの。……ごめんなさい」
「まったく、お前にはついていけないよ。どうしてそう常識がないんだ」
「そうね……ごめんなさい……」
 父は怒鳴り声をあげるような男ではなかったが、躾には厳しく、幼い振る舞いの目立つ母もその対象だった。
 大人として大人らしく、きちんとする。そんなこと元から苦手なくせに、父に好かれようと、母はずっと我慢ばかりしていた。他人からすれば本当に我慢なんかしていたのかと疑われるかもしれない。だがそれでも、本人にとっては努力していたのだ。努力して、あれだったのだ。
 母は、心底父が好きだった。
 ただそれだけだ。
 だからいつも父の顔色をうかがって。
 父のことが好きだから、注意されれば、ただへらへらと笑うしかなかったのだ。
 でもそれを知っているのは、きっと俺だけだった。
 母さんの笑顔はあんなにも素晴らしいのに、どうしていつもいつも、母さんが謝らなきゃならなかったんだろう。
 工場で母に抱きしめられながら、頭の中は答えの解らない疑問でいっぱいだった。
「ヨシくん、あたしのこと好き?」
「だい好きだよ」
 しゃくり上げる答えは途切れ途切れになる。俺の目には、天井から吊るされたあのどす黒い鎖が、焼きついてしまっていた。
 母の涙声が助けを求め、恨みがましく紡がれる。
「あたしもヨシくんが一番大好きよ、だからあたしのこと……ヨシくんがずうっと守ってて……ずうっとよ……お願いだから、ヨシくんはあたしをずうっと好きでいて……」
 お願いよと何度も繰り返し、ずるずると泣き伏した母は土下座するように床に手をつく。うなだれた背が震え、ペンキの飛び散った床が涙で濡れていくのを見て、俺はなんとか自分の涙を鎮めようと必死で息を止めた。
 母は俺のことをほんとのヒーローだと言った。守ってくれてありがとうと言った。
 母に我慢ばかりさせつづけた父は、その母を守ることを放棄し、どこかへ消えた。
 だからもう、俺が守る以外、道はなかった。
 頬に流れそうになった最後の一滴を拭い、俺はゆっくりと母の頭を撫でる。

 ◇

 名字が変わったことが知れ、両親の離婚に気づいたタツヤと再びケンカになったのは、それからすぐのことだった。
 確かその頃には既に母は水商売を始めていて、ふしだら感にも拍車がかかっていたと思う。
 子供だった俺はしばらく気づかなかったが、母は俺と妹を実家に預けたまま、一人で近所のアパートへと移り住んでもいた。実家にいると嫌でも工場が目に入りアイツを思い出して苦しいのだと、泣き顔で聞かされたのはいつだったか。母はいつの間にか、瀬ノ塚塗装も辞めていた。
「ほらみろ、やっぱりリコンした! お前のかあちゃん、ふしだらおんなー!」
 タツヤのそんな言葉にまたカッとなって、以前よりも大きなケンカをした。
 母から公認だと思っていた俺は、正義の味方さながら、今度という今度はタツヤを完全に倒してやると襲いかかった。何度も殴っては蹴り、強く突き飛ばした拍子に片腕骨折という大きな怪我も負わせた。
 その時はタツヤが大泣きするのを見ても、母を守ったという道理があった。きっと母はまたあの美しい笑顔で俺を出迎え、ありがとうと、優しく頭を撫でてくれるだろうと思っていた。
 父と別れてから一度も笑わない母が、きっと今日は笑ってくれる。そう期待していたのだ。
 だが母が笑顔になることはなかったし、労いの言葉さえ、俺はもらえなかった。
 母は保母から呼び出されるや血相を変え、俺の意見になど耳も貸さず、ただ俺の頭を思いきり引っぱたいた。その時は痛みよりも、母に怒られたというショックのほうが大きかった。
 俺はその日のうちに母に引きずられ、タツヤの家へと謝りに行くことになる。玄関先に出てきたのはタツヤの父で、腕にギブスを巻いたタツヤも、泣きそうな顔で引っ張り出されてきた。親同士の会話からタツヤの両親も離婚していたことが分かったが、俺は釈然としない思いでタツヤを睨みつけていた。
 タツヤの父も深々と謝ってはいたはずだ。だが母はそれ以上に平謝りし、お詫びの品を渡し、俺の頭も力ずくで何度も下げさせる。
 その帰り道、俺は母に盾突いた。
「なんであやまらなきゃならないの! おれ、悪くない!」
 すると母は、いつの間にか流していた涙を隠しもせず、憎しみなのか不安なのか解らない表情で振り返った。きれいな顔がゆがみ、鳥肌が立つほどの声で怒鳴る。
「ケンカの理由なんかどうでもいいの! こんなことであたしを困らせないでよ、やっていいことと悪いことの区別もつかないの! 暴力は絶対にダメ、これからは暴力を振るわないと約束しなさい! 暴力はなにも生まないんだから!」
「……」
 それ以上、俺はなにも言えなかった。
 祖母の家に放り込まれた俺は、夕飯も食べずに泣き続け、暗い和室の隅で古いクッキー缶を開ける。大事なオモチャと一緒にそこに入っていたのは、母がくれたギザギザの十円玉だった。
――私を守るのよ、暴力を振るわずに――。
 母の求めは難題だった。
 俺は慰めにきた祖母の膝に抱かれながら、十円玉を握りしめ、きっと『ほんとのヒーロー』ならそれもできるのだろうと思っていた。



 
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