>NOVEL>葛飾、最後のピース>ジャスティー編

第4話
近いのに遠い場所
 

 瀬ノ塚塗装は少々の修繕を加えたものの、いまだ昔と変わらぬ風貌でそこに建っていた。トタン壁に掲げられた看板が、年月を感じさせるように錆びている。二〇一二年も終わりに近づき、十二月に入ってから三度目の夕方を迎えていた。
 定時で仕事を終えた青い作業着は、今日も存分に塗料の臭気にまみれ、その役目を終える。こちらもずいぶん錆びついたが、稼働だけは滑らかなシャッターをくぐれば、辺りは既に暗く初冬の香りが風に舞っていた。
「おうい、坊ちゃん、待ってくれぇ」
 シャッターに手をかけた正義(まさよし)は、せわしない足音に目を丸くする。
「うわ、ごめんなさい、閉めちゃうとこでした!」
「悪い悪い、俺で最後だ!」
 小走りで駆けてくる老体に、正義は「いいよ、ジジイなんだから走らなくて」と笑いかける。最後の従業員が外に出ると、正義はシャッターにしっかりと鍵をかけ、明るい挨拶とともに工場を後にした。
 どこからか、嫌でも年末を感じさせるメロディーが聞こえてくる。顔を上げるとランドセルの小学生が二人、リコーダーで第九を吹きながら帰宅していく姿があった。
「もうそんな時期かぁ……」
 懐かしい光景に目を細め、正義は頭に巻いていたタオルをほどく。結ぼうと思えば結べるほどに伸びた髪を掻き回していると、瀬ノ塚家へと向かう足音に紛れ、胸のスマホがピロリンッと鳴った。
 不意の着信に歩が止まる。
 メールの送り主は確かめなくても解っていた。母親だ。
 最近は連絡してこないから安心していたのに、なんだろう。工場が終わる時間を狙って送ってくるなんて、嫌な予感がする。
 あからさまに顔色を曇らせながらも、正義は胸ポケットをまさぐりメールを開く。そこにはたった数行ながら、頭の痛くなるような内容が書かれていた。
『なんと彼氏ができました! ヨシくんより、ちょっと年下の子なのよ! 素敵でしょ!』 
 予想以上の下らなさに舌打ちも出ない。正義は浮かない顔のまま、手早く返信した。
『そう。よかったね。優しい人?』
 乱雑にタップし、きちんと送信されたかどうかも確認しないまま、スマホをポケットに押し込む。瀬ノ塚家の板張り外壁はあの頃よりもだいぶ朽ち、そろそろ塗り替えたらどうだと迫っていた。
 溜め息ついて玄関の引き戸をくぐると、今度は電話着信にスマホが鳴った。見れば画面には妹の名が浮かんでいて、正義は靴を脱ぎながら通話に応じる。
「もしもし? なに?」
「あ、ヨシ兄ごめん! あのね、きょう、お母さんから牛乳三本買ってきてって言われてたんだけど――」
「またそんなわがまま言ってんの、あの人は」
「でも私、まだ仕事終わらなくて……」
「わかったよ、俺がやっとく」
「うん、ありがとう。あと、今晩のおかずは干物焼いてって、おばあちゃんに――」
「了解。言っとく」
 通話を切れば、画面は十七時半過ぎを指していた。真由美は今すぐにでも行って欲しそうだったが、正義にとってはまだ時間が早すぎる。
「七時過ぎでいいか」
 そう呟き台所を覗くと、祖母のツネ子が丸い背でカボチャの煮加減を確かめていた。正義は最近耳の遠くなった祖母に優しく近寄り、背を撫でながら今帰宅したことを告げる。
「あぁヨシ、お帰り。今日もご苦労様ねェ」
 ツネ子の短く切られた白髪はいつでもきれいに整っていて、母、典子には見られない聡明な上品さを感じさせる。カボチャの味見をさせられつつ真由美からの伝言を伝えていると、廊下の奥からしわがれた声がかけられた。
「おうヨシ! 風呂空いたぞ、おめぇも早く入っちめぇ!」
 普段からやたらと大声な祖父に頷き、正義は脱衣所へと向かう。年老いても背の高い豊一郎(ほういちろう)は、若い頃はさぞ男前だったろう面影を残し、しわ深い額を手ぬぐいで擦っていた。

 ◇

 十九時が過ぎ、風呂も夕飯も終えた正義は分厚いコートを着込み、下冷えのする住宅街へと出向く。徐々に早足になるのは、寒さのせいだけではなかった。江戸小紋のロングスカートがバサバサと足に絡みつく。
 さっさと行って、さっさと帰ろう。
 そう自分に言い聞かせ、今にも走り出しそうな速さで人影のない舗道を蹴る。祖父母の家からは徒歩五分で着くはずのマンションなのに、そこへ行くのはひどく億劫だった。途中で買った数本のリットルパックが重く感じられ、揺れるレジ袋も苛立つほどうるさい。
 母典子は、以前は質素なアパートで独り暮らしをしていたが、今は数年前に建ったばかりの家族向けマンションに住んでいた。ちょうどその頃に付き合っていた男が、奇跡的に金のあるジジイで、愛人への別宅として買い与えられたところに今も住み続けているのだ。
 小ぎれいな高層マンションに着くと正義は脇目も振らずエレベーターに乗り、『瀬ノ塚』と表札の出ている部屋へ合鍵で入っていく。
 ドアをくぐった途端、化粧品なのかフレグランスなのか、むせかえるような女物のにおいが鼻を突いた。部屋は暗かったがまだかなり暖かく、典子は出かけたばかりのようだった。
 正義は玄関の電気をつけると、一直線にキッチンへと入っていく。カーテンの閉め切られたリビングに常夜灯が光っているのだけは目に入ったが、その奥にある寝室がどうなっているかなど、できるだけ見たくはなかった。
 薄暗い中、冷蔵庫を開けた猫背に甘ったるい鼻声がかかる。
「あらぁ、ヨシくんが来てくれたのね。ありがとう」
 キッチンの電気がパッとつけられ、その拍子に大して汚れてもいないコンロが目に入った。
 不在の時間を狙って来たというのに、会ってしまうとは上手くいかないものだ。正義はそんな心の文句を押し隠し、なんとか優しげな声を背後に向ける。
「いたんだ、母さん」
「母さんじゃないでしょ。ノンちゃん」
「きょうはお店ないの?」
「んー? んふふ、まぁね〜」
 振り返ろうとしない正義は、窓ガラスに映った典子を盗み見る。いつにも増して色気づいた笑顔だった。
 長い髪はゆるくアップにされ、後れ毛がだらしない。服装もだぼっとした大きめのセーターに、タイツの足が伸びているだけだ。どうせ仕事を休み、これからここで男と会うだろう。
 ほとんど空っぽの冷蔵庫に買ってきた牛乳を入れながら、男の話になどならないよう言葉を選ぶ。
「ちゃんと食べてるの?」
「食べてるわよ、外で。あたしが一人で自炊して食べるわけないじゃない」
 酔っているみたいに笑う典子は、ふらついた足取りで食器棚をあさる。そこには栄養にもならないような、菓子類しか入っていなかった。
 牛乳は栄養たっぷりなんだから、しっかり飲みなさい。
 昔からよくそう言っていたのは典子本人だが、それだけ飲んでれいばいいというものでもないだろう。赤ん坊じゃあるまいし、ミルクだけで生きているようなところがあるような母を、正義はできるだけやんわりと咎めてみる。
「牛乳ばっかじゃ、体壊すよ?」
「うるさいわねぇ」
 冷蔵庫に並ぶ、封の開いたパックを振ってみれば、空のものが数本見つかる。正義は典子の顔を直視しないまま、それらをゴミ袋に捨てた。
「うちに食べにくればいいのに」
「やぁよ」
「なんで」
「だぁって……アイツ思い出すし……」
「またそんなこと言う」
 仕方ないなと笑いながら冷蔵庫を閉め、正義はキッチンを出ていく。すると慌てて食器棚から離れた典子が、腕を取って絡みついてきた。
「もう帰っちゃうの? ねぇ、久しぶりに来たんだから、ゆっくりしていきなさいよ。いいでしょう?」
 すがるような目でしがみつく典子に、正義は心底すまなそうな顔を向ける。だが足は正直で、玄関へと向かうのをやめはしなかった。
「ごめんね、きょうは俺も行くとこあんのよ」
「冷たいんだから。ヨシくん、近頃ぜんぜん来てくれないじゃない」
「そりゃ。来ないほうがいいでしょ? 俺なんかが出入りしてたらケンカしちゃうよ、彼氏と」
 自分から男の話を振るなんて馬鹿だなと思いながらも、そんなふうに言えば、母が躊躇するのも知っていた。
 靴を履き玄関ドアを開けた正義は、典子が好むと知っている穏やかな笑顔で振り向く。そしてしつこくつかまれる腕を、なだめなるようにそっと引き抜いた。
「じゃあね」
 下手に騒がれないよう最後まで柔らかい声を与えるが、ドアを閉めようとする正義に典子はまだ食い下がってくる。
「ねぇ、待って」
 それは、立ち去る大人をなんとか引き留めようとする子供の姿に、よく似ていた。思わず叫びたいほどに焦れるが、正義は従順そうに「ん?」と眉を上げて見せる。
「あたしのこと好き?」
「どうしたの急に」
「だって……」
 典子はふてくされた顔で言いよどみ、正義の胸元をきゅっとつかんでくる。ぐいっと引っ張られれば、否応なく顔が近づいた。
 参ったなとでも言うように正義はごまかしの笑顔を浮かべ、典子の顔を覗き込む。
「ほら、離して?」
 はたから見ればキスでもしそうなくらい、恋人同士のように見えるのは解っていた。だがそれ以上に、こんなふうに接しさえすれば母は安心するという経験則が、正義の態度をコントロールしていく。
 俺がこうしてさえいれば、この人をこの世につなぎとめられる。
 だからずっとこうしてきたのに。
 そんな思いが、正義の胸をざわつかせた。
「好きなら好きって言って」
 典子の口から出た少女のようなお願いに、眉根を寄せた正義は言葉を失う。
 顔を上げると、通路に突っ立つ若い男がこちらを見ていた。その驚いたような表情からして、例の彼氏に違いない。目に痛いようなチャラい金髪に、思わず溜め息が漏れそうになった。
 もたもたしてっから、会わなくていい人間に会っちまうんだよな。
 正義はそんな真意などおくびにも出さず、典子の手を優しくもぎって囁きかける。
「そういうのは、彼氏に言ってもらうもんでしょ?」
 正義の目配せで典子も男に気づき、案の定、パッと手を放す。その機を逃さず身を引いた正義は「失礼しまーす」と男に明るく笑いかけ、部屋を後にする。背後では男の「誰あれ」という問いと、「違うのよ」という典子の声が聞こえていた。
 エレベーターなど待てず、正義は長い階段を一気に駆け降りる。





 
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