>NOVEL>葛飾、最後のピース>ジャスティー編

第5話
おんぶと抱っこ
 

 数日後の夕暮れ、工場から戻った正義は、両手にレジ袋を提げた真由美と玄関先で出くわした。あまりの買い込みぶりに、自然と手を伸ばし代わりに持ってやる。
「どうした、きょう特売日じゃないのに」
「お母さんからね、きょうこっちに夕飯食べにきたいって電話あったの。すごく久しぶりでしょ? だからお母さんが好きなの、たくさん作ってあげようと思って」
「へぇ……珍しい」
 母からの連絡はないならそれに越したことはないのだが、と正義は思う。だが真由美が嬉しそうにはにかむのを見ると、食事に誘ったのもそう悪くはなかったようだ。
 家に入ればすでにツネ子が台所に立っていて、真由美もいそいそとエプロンをかける。典子が夕飯を食べに来るだけなのに、二人とも見るからに色めき立っていた。
「風呂、まだじいちゃんが使ってんでしょ? 俺も料理手伝うよ」
 そう声をかけた正義に、蒸し器を開けたツネ子はありがとうねぇと笑顔する。正義は湯気とともに溢れた茶碗蒸しの匂いに鼻を鳴らし、玄関脇の階段を上がりながらスマホを手にした。
『ごめんなさい、野暮用入っちゃいました。きょうは僕、パスで』
 送信ボタンを押せば、そのままの言葉が律儀に一英へと飛ばされていく。急いでツナギから着替えた正義は、軽い足取りで台所へと戻っていった。
 古民家と言っていいほど古びた内観に、比較的新しいモデルの炊飯器や電子レンジが並ぶ様子は、訪れた客人をたびたび感嘆させる。最近では調理に使う油分を気にして、真由美が揚げないフライヤーなんかも参入させていた。
 ツネ子と真由美が作ろうとしていたのは、普段の三倍はありそうな品数の惣菜だった。どれも典子が好んで食べていたものだと、昔を思い出してはツネ子が語る。
 狭い台所に三人で並んでいるうち、典子が来ると約束した十九時半が迫ってきていた。いつの間にか風呂から上がった豊一郎も、ちまちまと居間のコタツで一杯やっている。長方形の卓上を埋めつくす惣菜に、豊一郎はもう正月が来たかと笑った。
 配膳も終え、腰を抑えながらコタツに入ったツネ子は、割烹着のまま豊一郎に徳利を傾ける。
「そろそろ来る頃ですねぇ」
 ツネ子の言葉に豊一郎が素っ気なく頷き、手元皿を運んできた真由美は楽しそうに腰を下ろす。
「食べるの、もう少し待とうよ」
 夕飯がしばしのお預けとなる間、振り子の柱時計を一瞥した正義は嫌な予感を押し殺していた。だがそれは、虚しくも的中する。真由美が「おじいちゃんとヨシ兄だけでも食べて」と席を立ち炊飯器を開けたのは、約束の時間から三十分が過ぎた頃だった。
 結局、全員が食事を終えても典子は現れなかった。二十一時が過ぎ、誰もしゃべらなくなった食卓に、プラズマテレビの健康番組から司会の声だけが流れる。別皿に取り分けた母用の惣菜がすっかり冷めたのを眺め、真由美が寂しそうに呟いた。
「来ないね」
 溜め息つく真由美とツネ子に、正義は「ごめん」と口を開く。
「俺のせいだよ」
「ヨシ兄の? なんで?」
「こないだ俺が誘ったんだ、たまには食べにくればって。だから……来るとか言ってみたんじゃないかな。でもきっと言ってみただけで、結局その気にはならなかったんだよ」
「そうだったんだ……」
 それを聞いていた豊一郎が、ケッと息を吐き捨てる。
「ったく、作った飯がもったいねェや。今度からあいつのぶんは、顔見てから作れ」
「ほんと。そうしましょうねェ」
 やれやれと腰を上げたツネ子が残り物を冷蔵庫へと運び始める。いたたまれず、真由美が「私、呼んでこようか」と立ち上がると、ツネ子が首を振った。
「いいのよ、ほっときなさい。いつものことでしょ、あの子気分屋なんだから」
 静かに頷いた真由美は、正義と目が合うと所在なげに笑う。そして肩をすくめるや、明るい声でおどけて見せた。
「ちょっと張り切って作りすぎちゃったかな! 四、五日は料理しなくてもよくなっちゃった! アハッ、ちょっとラッキー」
 せっせと皿にラップをかける真由美に、正義は俺が本気出せば今晩でなくなるよと笑う。「ごちそうさま」と正義が立ち上がると、テレビを見たままだった豊一郎が念を押してきた。
「ヨシ、行かなくていいぞ」
 その言葉に大人しく頷き、正義は入り損ねた風呂へと向かう。
 元より、母を迎えに行く気などなかった。
 あの人の場合、連絡がない時がやっぱり一番安心なのだと、苦々しい笑いがこみ上げる。
 マンションへ行ったのは一昨日だが、その後、特にメールなどもなかった。祖母と真由美には悪いが、このまましばらく音沙汰がなければいいとさえ思っていたのだから、すっぽかされるくらいが自分にはちょうどいい。
 風呂から上がった正義は、肌着の胸元を煽ぎながら軋む階段を上がる。自室の襖を開ければ、東向きの窓からは典子の住むマンションが見えた。思わず独り言が口をつく。
「やるって言っててやらないとか、そんなんいつものことじゃん。がっかりすることでも、怒ることでもないよ」
 そう言ってはみるが、家族の落胆ぶりを思い出すと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。祖父だってそんな素振りは見せなかったが、真由美たちと変わらぬくらい残念だったに違いない。
 後先も考えず、余計なことを口にしてしまった自分に嫌気がし、正義は暗い中、窓障子を閉める。
 垂れ下がる紐を引き電気をつければ、ふと姿見が目に入り自分と目が合った。目をそらしもせず同じ顔をしてこちらを見る男を、じっと睨み返してやる。
 小さな頃から母親似だと称されてきたその顔は、身長の伸びが止まった頃から大して変わっていないように思えた。第二次性徴、男性ホルモンの活躍ですら抗えなかったなんて笑えると、正義は自らに眉を下げる。
――あたしのこと好き?
 不意に母の声が聞こえた気がした。それは、鏡の中の顔が言ったようにも思える。
「髪……そろそろ切ろうかな」
 最後に切ったのは四月頃だったろうか。ほったらかしのまま、だいぶ伸びた髪が、この顔をより母に似せているのだろう。そう決めつけ、正義は姿見の上からバスタオルをかける。
 母が「好き?」と聞く時は、決まってへこんでいる時だった。
 冷えた畳に体温を奪われるようで、正義はたくし上げていたスウェットの裾を横着に爪先で下ろし、トレーナーを着込んで石油ファンヒーターのスイッチを入れる。すると、タンスの上に置いていたスマホがピロリンッと鳴った。
 一瞬息を止めた背が、すぐに大きな溜め息をつく。
『彼氏とケンカしちゃったのよ。なぐさめにきて』
 想像通りのそんな文面に萎え、正義は思わずベッドの上に倒れ込んだ。また痴話げんかの愚痴を聞かされるのかと思うと、うんざりだった。このまま寝たことにして完全無視してしまいたいと、布団に顔をうずめる。
 わがままで、子供じみていて、自堕落な生活ばっかりしてて、常に男がいないとだめで。
「ほんと面倒くさい人だな……」
 そう突き放してみるが、結局は自分が聞いてやらなければ事は収まらないのだろう。この数か月は珍しく音沙汰がなく、気を抜いていただけに本気で頭が痛い。
 すると今度は、友人からのメールを知らせるメロディーが流れた。手の中の画面をなぞると、こちらの空気などお構いなしに右上がり矢印が踊るのが目に入る。
『忘年会やりたいんだけど、ジャスティー幹事頼めない?』
「幹事……」
 珍しく面倒だった。
 友人からの誘いは何だって嬉しい。
 しかし今は、これから母がふっかけてくるだろう愚痴への対処に頭がいっぱいで、正直幹事どころじゃなかった。母のことでこれから疲れる、その予測に疲れてしまって、何もしたくない気分になる。
「……どうしよ」
 返信できないまま布団に臥せっていると、続けざま、別の友人から同じ内容のメールが届いた。きっと大勢で飲んでいて、そこで忘年会の話になったのだろう。
 溜め息ついた正義はスマホを枕の下にねじ込む。
 このまま友達に返信しなければ、何だかおかしいとか、いつもと違うなんて思われるに違いない。母のほうだって、無視なんかした日には、盛大にへそを曲げて手に負えなくなるだろう。
 溜め息が止まらなかった。
「なんで俺、親のことでこんなに気を使わなきゃなんねぇんだろ……」
 顔を合わせるたび「好き?」と聞かれるのが辛いのだ。
 幼児の頃のように「好き」と言葉にすることはおろか、少年の頃のようにただ頷くことすら、今はもうできなくなっている自分がいるから。
 母が必死に応えを求めているのは知っている。でもその言葉を口にして、もしまともに相手をしてしまえば、母の中へどこまでも飲まれてしまいそうな気がしていた。
 ろくな言い訳も考えつかないうちに、再びメール着信を訴えるメロディーがくぐもって鳴る。正義は長い瞬きをした後、意を決したように枕を持ち上げた。
 抜き取ったスマホには、さっきとはまた別の友人からのメールが映る。そこには、
『二十代最後の忘年会だし、今年の苦労以外にも色々忘れようぜ!』
と、書かれていた。
「今年の苦労以外も……」
 その言葉に、誘いを断ろうとした決意が揺れる。
 忘れたいのは山々だった。
 忘れたくても忘れられないことばかりが、頭を駆け巡る。
 忘年会に没頭してあの人のために使える時間をなくしてしまえば、俺はあの人のことを考えずにいられるだろうか。
 もしそうなれるなら、これが一番の上策かもしれない。そう思った正義は、ほかの考えが浮かばぬうちに、素早く幹事OKの返信を投げ打つ。そして勢いのまま典子にも、忘年会の幹事で忙しく、しばらく会いには行けないとメールを送った。
 母のもとへ言葉が飛び去った瞬間、少しの罪悪感が胸を襲う。
 だがそれを振り払うように頭を振ると、正義は急いで外出着に着替え始めた。色違いの江戸小紋が縞になるよう縫い合わされた青系プリーツスカートに、トラッド系の白セーター、アーガイルのロングソックスに、ダーティーなスタジャンも着込む。
 最後に日本の鎧兜を模して編まれたおふざけニット帽を被ると、スマホで馴染みの番号をまさぐり呼び出し音に耳を傾けた。
「――あ、カズくん? まだ飲んでます? 野暮用終わったんで行きます。今どこ?」





 
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