>NOVEL>葛飾、最後のピース>ジャスティー編

第10話
ハンドカフ
 

 そこから先は正義にとって、なにがどの日に起きたことだったか記憶が定かではなかった。
 仕事終わりに空腹をおしながら、ベニヤ板やらパイプテント、ドラム缶集めにと、いったい区内を何周したことだろう。昼も夜もただただ慌ただしく、一英に至っては、子供の世話も手伝って毎晩泥のように眠ってるとぼやいていた。
 いつしか『安く上げるためには何でも作れ!』が合言葉になり、女性陣は恵の住むマンションに裁縫の拠点を構え、当日屋台村の給仕スタッフが着ることになった揃いの衣装を作るまでになったという。
 絵梨香や凛だけでなく、区外から来た恵の裁縫仲間も巻き込んでの制作は、数台のミシンが所狭しと置かれ、マンション内に軽い町工場が再現できていた。泊まり込みでミシン掛けする女たちの本気度が熱い。
 西新小岩の大黒湯で、一英が浴場の鏡を前に「疲れた」を連発する。体を洗う一英の隣では、正義が夜空の雲行きでも確かめるように天井を見上げていた。大浴場は相変わらず心地よく、女湯からは小さな子供のはしゃぐ声が聞こえてくる。
 工場仕事で埃っぽくなった頭を掻く正義に、一英は毎日スマホの震えが止まらないと愚痴る。
「昨日なんか仕事中でも呼び出されたぜ、恵ちゃんに。『仕入れた荷物が運べないの、ヒーたん今から日暮里に迎えに来て!』とか言っちゃって、すげーテンションでケラケラ笑ってんの。そんで、日暮里のどこにいるかも言わないで電話切っちゃうし」
「問屋萌えだからね、恵ちゃん」
 カランから豪勢な勢いで出てくる湯をケロリン桶で受け、正義は「とりゃー!」と叫び自らの頭にぶっかけた。ずぶぬれた髪から湯が滴り、撫でる手の平からシャンプーが泡立っていく。左手に巻かれたままのブレスレットがリズミカルに揺れ、カシャカシャと音を立てた。
 絵梨香からも浅草橋まで迎えに来てという電話がきたことがあったが、その時は本当にめちゃくちゃ修羅場だったんだからなと、一英の文句はとどまるところを知らない。
 右手では台所を引っ掻き回し、左では赤ん坊を抱く。
 赤ん坊がぎゃあぎゃあと泣きわめき、耳に挟んだスマホの声も聞き取りにくい状態で、慌てる指先がミルク缶を床にぶちまけるわ、そのせいで赤ん坊がさらに泣くわ。
 真っ赤になって泣き続ける赤ん坊に翻弄されながらミルクを作るのは、それだけでも至難の業なのだと一英は力説する。
「年の瀬に生まれた子供に罪はねぇんだよ。でもな、姉ちゃんが自由すぎんだ。その時もあの姉、のんびり風呂なんか入ってたからね。早く出ろっつっても、『唯一子供から解放される至福の時なのよ』とか、『こっちは産後ブルーなのよ』とか威張っちゃってよー。だいたい、里帰り出産って弟が手ェ貸さなきゃならないようなものかっつーの。ほんと家ん中、劇的にしっちゃかめっちゃかだぜ。食卓に使用済みオムツが乗っかってたりすっから」
 疲労の中にある悦を滲ませながら、一英が首元を洗い始める。
 仕事上がりの一英がデレデレで赤ん坊に近づこうものなら、きっと美洋は完全拒否し、風呂へ直行しろと足蹴にするのだろう。
「汚い手で孝介(こうすけ)、触らないで! ほんっと、触らないで!」
 そんな美洋とのやりとりが正義の目にも明確に浮かぶ。大量の泡で髪を逆立てて遊んでいた正義は、ウルトラマンみたいな頭でくすくすと笑った。
「いいなぁ忙しそうで」
 するとその働き者は鏡越しにこちらを睨み、いかにも被害者面の悪ぶりを見せる。そして自分の桶にたまった湯を、正義の顔目がけ勢いよく浴びせてきた。
 身構えた以上の強さで顔面に湯が弾け、鼻の穴にも逆流する。情けない顔で鼻を押さえた正義に、一英はフンと鼻を鳴らした。
「ぶっとばすぞ。そもそも、あんたが車出さねぇから、みんな俺に頼るんだろうが」
「何度も言ってるでしょ! 僕の運転は神業すぎて、俗世には合わないんですってば!」
 ジャスティーは咳き込みながらも、まだ頭に残る泡を集め、ジュワッチと言いながら一英に向かってアイスラッガーを放つ。避けもしない一英の顔がベチャッと泡でつぶれた。
 その隙に正義は一英の背中に指を立て、泡だらけのそこに『マサヨ命』と書く。一英の「ヤメロ!」という怒鳴り声が浴場に響いた。
 二人は塗料や金属汚れを落としたあと、熱々の湯船に浸かり、お決まりに「極楽極楽」などと存分に口走って汗を流すと、早々に風呂をあがった。
 脱衣所に出てもなお、どちらからとはなしに、会話はフェス準備のことばかり繋いでしまう。
「今日はこれから、どこ回るんだっけ?」
「とりあえず今日は、レンタル回りの前にお凛さんのとこに……」
 腰にタオルを巻いた正義がそう言いながらロッカーを開けた瞬間、中に転がっていたスマホがピロリンッと鳴る。あまりにも萎えるタイミングに、正義はさっぱりと洗い落とした穢れがまた降り注いでくる感覚にかられた。
 ロッカーの中を見つめて固まっている正義に、一英が「どうした?」と尋ねる。
「あ、えっと、メールかな」
 ハッとした正義は慌ててスマホを手にし、母からのメールは無視して、都合よく来ていた友人からの新着を開く。
「あ! 当日、トラック貸してもいいって! 二トンロング!」
「おー、やった! レンタル代いくらだって? 今日会えるなら、すぐ渡しちゃおうぜ、今どこにいるか聞いて」
「おっけー」
 返信メールを打ち込んでいる正義の左手首で、古びたブレスレットが揺れる。革製なのに惜しげもなく濡れてしまっているそれを眺めながら、一英がタオルで頭を拭った。
「あんた、それいつもしてるよな。風呂でも外さないけどなんなの?」
 不意の問いに、正義は左腕を隠したい衝動に耐える。
 一英からは今まで一度も尋ねられたことがなかっただけに、心臓が跳ね上がるようだった。
 指は動かし続けたものの視線のわずかに泳いだ正義が、せめて声だけでもと、俯いたままおちゃらける。
「ひ・み・つ」
「うぜ」
 いつも通りを装ったとばれるのが怖くて、正義はそのまま一英に背を向け、竹製のベンチに腰掛ける。しかし一英はこちらを気にすることもなくてきぱきと着替えを済ませ、先に脱衣所を出ていった。
 完全に一英が見えなくなったあと画面から顔を上げ、正義は深い溜め息を吐く。
 この顔は自分が思っている以上に、心境がだだ漏れているものなのかもしれない。
 そう思うと、一番長く時間を共にしている一英には、いつか核心ついた質問をされそうで、彼の目に映る自分をもう少し演出しなければなどと姑息な案が湧く。
 このまま何事もなく年末が過ぎていけばいい。楽しく、ただ楽しく、今年一年を締めくくれればそれでいい。
 正義は祈りにも似た気持ちで、もう一度スマホに目を落とした。
 みんなで楽しく迎えようとしている忘年フェスを、こんなことで崩してしまうのだけは避けよう。心配など、したくも、されたくもない。
 正義は立ち上がると友人への返信だけを飛ばし、母からのメールは読まずに捨て、スマホをバッグへと放り込んだ。
 脱衣所より外にある休憩スペースでは、ソファに埋もれた一英が「やっぱ風呂上りの牛乳はうめぇな」としみじみ呟いていた。手早く着替えを済ませた正義が脱衣所から滑らかなツーステップで出ていくと、一英がなにその無邪気モイ動きという顔で出迎える。
 一英は正義の手に持たれていた瓶を見るなり、解ってねぇなと口元を歪ませた。
「あんたまたオレンジかよ」
「牛乳飲めないんで!」
「だから伸び悩むんだ」
「今日のカズくん嫌いです!」
 正義の、無駄使いとも言えるキラキラ笑顔を見て、一英は一層怪訝そうな顔をする。しかしそんなもの一蹴するように正義はオレンジジュースを飲み干し、「早く行かないと、お凛さんにどやされますよ!」と一英を急き立てた。





 
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