>NOVEL>葛飾、最後のピース>ジャスティー編

第13話
架け橋
 

 日没もとうに過ぎ、冷え冷えとしてきた十八時前。一軒家の一階、本来なら居間であるところを作業場にした工場の前で、瀬ノ塚塗装の軽トラックが停まる。白いドアを押し開け中から降りてきたのは、真由美だった。
 真由美はいくつかの膨れたレジ袋を提げ、作業場横にある玄関の鍵を開け、中へと入る。家の中から作業場に続く扉を開けると、まっさらな看板に筆一本で文字を入れていたイグアナ顔の男が顔を上げた。
「ご飯作りに来たよ、お父さん」
 正男(まさお)は静かに「おう」とだけ応え、微笑んだ真由美は台所へと向かう。
 真由美の母に似た顔は、二十五歳を過ぎてから増々似てきたようで、まっすぐに伸びた髪を無造作にまとめればその後れ毛までもが典子を思わせる。
 だが真由美には、典子にはなかった良妻賢母の質がある。そこは生来真面目である父のほうに似たのかもしれない。スリッパをパタパタ言わせながらコートを脱ぎエプロンを締める姿は、新妻のそれのようであった。
 しばらくして作業を終えてきた正男が、台所の暖簾からヌッと顔をのぞかせる。
「悪いな、いつも」
「ん? なんで?」
「年頃の娘が男やもめの飯ばっか作ってるなんざ、空しくて泣けるだろう。そんな頻繁にこなくていいから、さっさと結婚しろ、結婚」
「えー? 相手いないもん」
「そんなもん、作ればできる」
 言うだけ言うと、正男は恐ろしげな顔をパッと暖簾の向こうに消す。エプロン姿の真由美はうなじの後れ毛を揺らして笑いながら、お風呂沸いてるよと声をかけた。
 数品の惣菜ができあがる頃、居間からは韓流ドラマでも見ているのか、韓国語らしき言葉がなんとかセヨ、なんとかセヨと聞こえてきていた。
 風呂上りにテレビを見ながら焼酎を飲んでいる正男に、真由美が煮つけたばかりのカレイを配膳する。
「ねぇお父さん、こないだ電話で言った忘年フェスのこと覚えてる?」
「なんだそれ」
 素っ気ない正男に、真由美はエプロンで手を拭きながら「もう」と膨れる。
「ヨシ兄が企画したお祭りのこと! 新小岩公園でやるって、外の電柱にもポスター貼ってあったよ?」
 ほう、とだけ頷き、正男はそれ以上興味もなさそうにテレビを見続ける。真由美は自分のスマホを取り出すと、父の横顔をにこにこと覗き込んだ。
「その祭りの準備風景っていうのがね、動画配信されてんの。見てみない?」
「童画背信?」
 正男が険しい顔をこちらに向ける。真由美は不穏な推測をしたらしいその様子に、「今まったく違う意味で伝わったよね」と困った笑顔を浮かべた。
「まぁいいから、とにかく見てみてよ。友達と一緒にいる時のヨシ兄だから。いつもウチでのヨシ兄ばっかじゃつまらないでしょ?」
 真由美はリモコンを取り上げ、その電源を落とすと、父の顔の前にスマホを突き出した。静かになった部屋でスマホだけがギャーギャーと騒ぐ。面倒くさそうに映像を眺める正男の隣に座り、真由美が細い指先で画面を指す。
「ほらこれ、ヨシ兄! 青い上着の!」
「これか? なんだか小さくてよく見えん」
「そのうちアップにもなるから。はい、老眼鏡」
 にっこり笑った真由美は、老眼鏡とスマホを父の手に託し台所へと戻った。
 そして、多めに作った惣菜をジップロックで小分けしながら、耳だけは聞こえてくる兄の声に澄ましてみる。
 小分けした袋を冷凍庫へ入れるついでに居間をうかがうと、言われた通りに動画を見続けている父の姿が目に入り、真由美は思わず笑ってしまいそうな口元を隠した。大きな背を丸めて小さな画面を覗き込んでいる父のもとへ、冷奴や肉じゃがを運び、最後に白飯を置く。
「真由美、悪いが無理だなこいつは。目がチカチカして見てられん」
「そっか、じゃあ今度パソコン持ってくるよ」
 正男はまだ騒いでいるスマホを真由美に返し、テレビをつけ直す。
 真由美は手の中のスマホに目を落とすと、小さな画面の中で動き回る兄を見ながら、なんでもない事のように口を開いた。
「ねぇお父さん」
「うん?」
「どうしてお母さんと別れたの?」
「どうしてって……」
「ヨシ兄も知らないよね? お母さんも教えてくれないし……。ほら私たちだってもう大人だしさ、そろそろ知ってもいいんじゃないかなぁって」
 真由美は、テレビを見つめながら言葉に詰まった父を見て、やはり聞かなければよかったという後悔に眉を寄せた。
 いま本当の理由を聞かされたとして、それを受け止める覚悟が果たして自分にあるのだろうかと胸で自問する。その覚悟は、多分、兄にもないというのに。
 真由美が父だって答える気はないだろうと思いかけた時、しばらく黙っていた正男がぽつりと言う。
「結婚だってあいつがしてくれと言うからしたんだ。あいつに離婚届突きつけられたら、書くよりほかになにができる?」
 父はそれきり何も続けなかった。まさか答えが返ると思わなかった真由美は驚いたように頷いたあと、しばし父の答えを噛みしめる。
 離婚届を突きつけた感情的な母と、それを律儀に書いた穏やかな父。
 当時の二人のことは記憶にないが、今の二人を並べてその光景を想像した真由美は、突然「そっか」と笑った。
「わがままだもんね、お母さん」
 忙しなく切り替わるチャンネルが、意味をなさない言葉を次々に繋いでいく。こちらを一度も見ない父に微笑みかけ、動画を切った真由美はゆっくりと腰を上げた。

 ◇

 今日はちゃんと帰ります、などと宣言した正義は、この日も零時を回る頃になって帰宅した。古びた瀬ノ塚家の引き戸を開け、すっかり祖父母の寝静まった一階を、酒の回った足取りでそっと抜ける。
 今日は母からのメールが一通もなく、気持ちよく酔うことができていた。忘年フェスの準備も順調だった。
 きしむ階段を静かに上っていくと、二階からパジャマに半てん姿の真由美が「おかえり」と顔をのぞかせた。
「ただいま」
 真由美の顔を見ただけで母の話題が飛び出すのではと思ってしまい、正義はその隙を与えぬよう聞かれてもいないことを続ける。
「あー、疲れた、疲れた。さすがに連日の区内巡りはこたえるね」
「そのあと毎晩飲んで帰ってくるからでしょ」
「ほんとに忙しいんだよ。なにしろ準備期間は刻々と消えてくんだから」
 短い廊下を渡る間をそんな話で持たせた正義は、「んじゃ、おやすみ」とブツ切り、自室の引手に手をかける。
 襖を滑らせた正義を、真由美の言葉が引き止めた。
「ねぇ」
「ん?」
「永原さんのチャンネル見てみた?」
「――え?」
 声をかけられて一瞬ひやりとしたが、永原の事と解り正義は間抜けな顔を返す。言われて初めて、毎日せっせと動画撮影していた永原の姿が思い出された。
 数日前、何かを開設したと宣伝して回ってたのは、そのことだったのか。
 色々と世話になっておきながら、そんなことすら酔っ払って覚えちゃいない自分を、不義理なやつだと嫌悪する。
「まだ見てないや。お前、見たの? どうだった?」
「面白かったよ。みんな楽しそうでいいなぁって、こっちまで当日がすごい楽しみになっちゃった」
「そう、客寄せ効果ありなら良かった」
「友達にも広めといたから」
 礼を言う代わりに笑みを見せた兄に、真由美は穏やかな声で「おやすみ」と背を向ける。
 静かに部屋へ戻ろうとする真由美を、今度は正義の小さな問いが引き止めた。
「母さんには?」
 言ってから、聞かなくていいのにと自分でも思った。
 物のついでのような聞き方をした正義に、振り返った真由美も自室の襖を開けながら同じような調子で答える。
「教えたよ。喜んで見てるみたい」
「ふうん」
 今夜は雨みたい。
 例えばそんな、寝ている間の天気予報を聞いた時のような、可も不可もなしといった生返事を残し、正義は自室へと入っていく。真由美はその背を最後まで見送り、自分も部屋の襖を閉めた。
 正義は凍えるような部屋でヒーターのスイッチを入れ、明かりもつけずコートのままベッドに腰掛ける。そよいできた温風に前髪が揺れ、正義は小さく鼻をすすった。
「永原チャンネルか……」
 ポケットから冷たいスマホを取り出し、冷えた膝に毛布を手繰り寄せながら、永原チャンネルにつなげる。小さな画面が闇に浮かび上がり、白い息と浮かない顔を照らした。
 幾つも並んでいるサムネイルの中から、自分が映っていた動画を再生してみると、軽快な音楽に乗せた映像が流れ始める。
 仲間が頭を寄せ集めて相談する様子や、区内で物資をレンタルして回る様子を交えながら、忘年フェスに参加し関わっていく人々の笑顔が続いていく。
 その中には、盛熊の店内で折り紙の鎖づくりに精を出す映像もあった。常連オヤジたちに交じり、江田と寿夫と瞬平の三人が、せっせと糊付けした折り紙を繋いでいく。小学生でも作れるような飾りなのに、江田の作品が不器用すぎて正義の口元が緩む。
 数分に渡った動画の最後で、そういえば酔っ払ってこんなことも言ってたっけなぁという自分と一英が映し出された。
「こんな感じで作ってまーす! 手作り感たっぷりですが、そこがまたいいんじゃないかと思いまァーす!」
 酒の勢いもあって目を覆いたくなるはしゃぎようの二人は、カメラを引き連れながら盛熊の店内を駆け、ハイタッチで応えてくれる常連ジジイどもや外人卓を舐めていく。
 ポスターを掲げて手招く絵梨香と凛、黙々と裁縫中の恵を乗り継ぎ、カメラはカウンター前で待ち構えていた江田、寿夫、瞬平の前で止まる。
 男たちがパァンと一斉に鳴らしたクラッカーに合わせ、店内からは歓声と拍手が湧き起こった。誰もかれもがヒューヒュー騒ぎながら、祭りというよりは宴会ムードが最高潮に達していく。
 そのままゆっくり後ずさっていくカメラを追い、自然と肩を組んだ仲間たちは、画面を覆わんばかりのピースサインをこれでもかと突きつけていた。
「当日はみんなで来てね!」
「忘れられない年末を捧げます!」
「きっとあなたに会えますように!」
「新小岩で僕と握手ーっ!」
 馬鹿笑いとともにフェイドアウトしていく画面の中、正義は大きく映った自分の笑顔で一時停止する。
 母に似たその笑顔を見ているうちに、昔言われた言葉が蘇った。
「ヨシくん、もっと有名になってよ」
 母がそう言ってたのはいつだったか。手繰った記憶はたいして迷うこともなく、絵梨香のためにスカート履き出した頃だったと答える。
 あの時、自分なりに「これがほんとのヒーローとしての戦いだ」と思って履き始めたスカートは、思いもよらない理由で母の関心をひいた。
 母の、身をよじるような甘い声が耳に絡みつく。
「ヨシくんのスカート姿、近所でも評判よぉ? 急に有名人ねぇ。あたしも鼻が高いなぁ。ねぇ、このままもっと有名になってよ。テレビに毎日映るくらい。ねぇってばぁ」
 テレビではないが、全世界に向けて発信される画面に毎日映るようになった息子を、あの人はきっとにやつきながら見ていることだろう。
 そして、もっと、もっとと望むのだ。
 爆発しそうなくらい湧き出してくる胸糞の悪さを、なんとか噛み殺す。苦しいほど深いところから出た溜め息が、いまだに白く濁った。
 噛みしめたままの顎が強張っているのを感じながらも、正義はベッド脇の窓から夜空を眺める。うっすらと結露した向こうに小さな星が瞬いていた。その下には、母の住むマンションが静かにそびえる。
 住人の起きている部屋はもう数えるほどしかなく、見つめている間にもひとつ、温かみのあった明かりが消えた。
 正義は長い瞬きをし、その部屋が母のものでなかったことに感謝すら覚えながら、立ち上がって窓障子を閉める。





 
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