>NOVEL>葛飾、最後のピース>ジャスティー編

第14話
氷雨、降る
 

 滞りなく忘年フェスの準備が進む日々は、当日まで残すところあと五日となり、時刻は二十三時半を回っていた。
 自宅の湯船に浸かり、頭まで湯に沈めていた正義がぶはっと顔を上げる。
 日曜の今日は朝から井梶プレスに赴き、一英だけでなくその従業員まで巻き込んで、屋台村に設置するセンターステージを試作してきた。井梶プレスと付き合いがある建築会社のおっさんが、ステージなんか高い金払って本業にレンタルするよりうちの足場使えばいいじゃねぇかと、太っ腹に大量の足場を貸してくれたのだ。
 職人たちとあれこれ相談しながらステージを作り上げるのは、物づくりの血が流れる身としては心地よい事この上ない時間だった。その時間をみな一丸となって共有すれば、忘年フェスへの情熱は嫌でも盛り上がる。
 それなのに今日もあの迷惑メールは、正義が弾むような心持ちになる瞬間だけを狙うように、何度となく送り付けられてきていた。
 何度自分を盛り上げても、母は必ずその頂点目前で叩き落としていく。
 正義は湯船に背を預けたまま再びずるずると滑り落ち、口も鼻も目も、そして頭まで湯に沈む。足だけを湯船から飛び出させ、小さく息を吐くと、こぽこぽと気泡が上っていく音がした。
 短文メールを大量に送りつけてくる母は、メランコリーな悲痛さを訴えていたに違いない。
 それでも正義は笑顔で井梶プレスに居座り、今日も母を無視し続けた。しつこく鳴るあの着信音を一英が一度だけ指摘してきたが、迷惑メールだからとだけ返し、ステージ作りに没頭する努力を続けた。
 湯船の中は静かで、聞きたくない音など入り込める余地もない。見たくないものも見なくて済む。
 俺じゃなくてスマホを水没させるのも、ありか。
 そんな思いがよぎりながら、切れた酸素を求め水面に上がる。
 風呂上りに濡れた髪をタオルでかき回す正義が自室の襖を開けると、その存在を嗅ぎ取ったかのようにすぐさまピロリンッという音がした。
 身を固めた正義は、いつも通りタンスの上に置いていたスマホに目をやる。暗い壁際で青白く光っているそれは、典子からの着信を何件も表示していた。
 責め苦に憎悪すら湧く思いで、頭からバスタオルを払いのける。
 手にした画面には『彼氏と別れた』という文字が刻まれていた。
 母の細い腕が異常なほどこの身を締め付ける。
「……」
 虚無による脱力が肩から腕へと抜けていき、正義は消え入りそうな瞳で窓のマンションを眺めた。
 やっぱり俺が言ってやらないとだめなのかな。
 あの人から逃げることなんてできないのかな。
 瞳には歪んだ確信が揺れ動く。
 濁った目で窓障子を乱暴に閉めた正義は、スウェットを蹴り脱いでスカートを履き、ファーフードのコートを着込んで階段を下りていく。
 玄関へ向かう正義に気づき、自分の部屋から顔を出した真由美が声をかけた。
「ヨシ兄?」
「ちょっと出かけてくる」
「今から? 湯冷めしない?」
「大丈夫」
 玄関を出た正義は、ストールを頭と首に巻きつけ足早に夜道を行く。真っ白な息が歩いた道筋をなぞっては消える。
「なにも考えるな。楽しいことだけ思い出せ」
 そう自分に言い聞かせながら、正義はただ、自分が行くべきだろう場所へと向かった。昔は銭湯だったコンビニに立ち寄り、牛乳を何本も買い、歩いて数分のマンション前で立ち止まる。
 そこに自分を待っている人間がいるのは知っている。
 救いを求めているのも知っている。
 守らなければならない存在であるのも認めているのに。
 足はそれ以上、動かなかった。
 マンションを漫然と見上げるだけで、その部屋がある階まで数える気も起こらない。ただ、この土地に昔は何があったのか。それがどうしても思い出せず、それだけを思い出そうとしていた。
 マンションは高く、ここでだけ吹き荒れる冷たいビル風がスカートをはためかす。
 突然、地面が緩んだ気がした。柔らかい砂地に立つようで、足元がおぼつかない。一歩一歩、自力で前へと踏み出そうとする足なのに、その度にそれが砂を崩し、ずぶずぶと飲まれていくような感じがする。
 正義は赤くなった鼻を撫で、車も通らない道をゆっくりと後ずさりし、マンションに背を向ける。そのままあてもなく走り始め、牛乳もどこかのゴミ箱に捨てスピードを上げた。
 スカートは裾から裏ボアと膝小僧を覗かせ、江戸小紋でしつらえたパッチワークを鮮明に彩って、冷え込む街へと消えていく。
 耳に湧き上がる疑問も、不満も、風切り音に消えろと全速で走り、正義は鼻の奥を突き破る痛みに顔をしかめた。バス通りの往来をすり抜けて、上平井橋へと続く急な坂を転げそうになりながら駆け上がる。
 身を切るほど寒い師走の夜に、何かから逃げて走る人影を振り返るような通行人もいない。
 赤信号を無視し、橋を登り切ると、中川の水面にきらきらと弾ける首都高の灯りが出迎えた。
 誰もいない堤防の上を引きずるような足取りで歩き、肩で息しながら夜空を見上げる。立ち止まってみれば、夜空よりなお暗い雨雲が空を覆っていた。自分の乱れた呼吸だけが辺りを満たす。
 白い色だけが尽きることなく口から溢れ出て、きっとこの身の中は黒だけが残るのだろう。いっそこの白いもやが世界を埋めて、何も見えなくなればいいのに。
 ストールを頭に巻いても、フードを被っても、濡れた髪は凍えるほど冷えていた。汗か水か解らない滴が額を流れ、頬へと落ちた。
 河口へ向かいとぼとぼと歩けば、あの日母が見せた、そしてそれが最後だった極上の笑顔が夜空に浮かぶ。
 窓から差し込む夕日を浴び、金色に輝いていた母の笑顔。
 あの幸せに抱きしめられた俺は、ただ愛しくて、嬉しくて。
 それだけをいまだに求めている。
 あの日のように母をただ愛するだけのことが、なぜこんなに難しいんだろう。
 正義はぱらついてきた小雨に苛立たしく眉を寄せ、ブレスレットを引きちぎらんばかりに握りしめた。
 牛の皮で作られたそれは恵のハンドメイドで、頑丈に作ってと頼んだだけにひどく強靭だ。食い込む皮ひもに指先がうっ血し、たった一つついている円盤型の皮飾りが揺れる。
「……っ……」
 関節がぎしぎしと痛み、力の限りブレスレットを掴む右手は、自分の意志で広げるのが困難なほどに固まってしまう。
 自分でつけた手かせじゃないか。
 自分で取ってなにが悪い。
 そんな思いとは裏腹に、正義は指をゆっくりと慎重にほどき、両手を仲裁するように引き離していく。
 まだ左手首に襲い掛かっていきそうな右手をなんとかポケットにねじ込むと、固いものが手の平に触れた。苦し紛れの指先がまさぐったそれは、氷のように冷たく、だが温かい繋がりをも想起させる。
 そこにすがるのは、ずいぶんな身勝手だろうか。
 そう思っても、これ以上一人でいられない。このまま一人でいたら無駄なことを思いつめるだけに決まっている。
 泣きそうな思いで震える息を吐いた正義は、取り出した画面をゆっくりとなぞり、願いを込めるようにうつむくと冷たいそれを耳に当てた。
 つらくても明るい声が出せるのは、母がくれた副産物だった。
「あ、カズくん? 僕です、あなたの姫です。あ、待って切らないで! 夕飯もう食べちゃいました? これからラーメンでも食べに行きません?」
 日付はすでにまたいでいた。夕飯の時間なんてとっくに過ぎているのは承知の上だ。もしかしたらもう寝ようとしていたかもしれない。
 なにやら電話の向こうで文句を言っている一英の声が、正義の耳元から漏れる。それを聞く正義の口元にも、じんわりと安堵の笑みが漏れていった。

 ◇

 夜中なのにラーメン屋に付き合ってくれる一英は、やはりほんとのヒーローに違いない。
「なに、その髪」
 窓際の席について頭からストールを外した正義に、一英はぎょっとしてそう言った。この小雨で濡れたと言い訳するには無理がある濡れ髪をほぐし、正義は「風呂上り」とへらっと笑う。頭おかしいんじゃねぇのと呆れた一英は、マフラーがわりに巻いていたタオルを正義に投げつけた。
 小一時間後、遠慮もなく一英のタオルを頭に巻き土方じみた正義は、数杯目のラーメンを吹き冷ましていた。
 なにも注文せず食べ終わるのを待っている一英が、もうずっと頬杖を突き、ぽかんと口を開いたまま正義を見つめる。大した会話もなく黙々とラーメンを食べ続けるその様子に、一英は思わず口を挟んだ。
「この時間にそんな食ったら、太るぞ」
「いいの、ヤケ食いなんだから。俺なんかデブになって顔面崩壊すればいいんだ」
「ヤケってなんだよ。今さらフェスやりたくないなんて言い出すんじゃないだろうな」
 忙しいのはお互い様、っていうか、絶対に俺のほうが忙しいんだからなと文句を垂れる一英に、正義は深い溜め息をし「どうして?」と尋ねる。
「は? どうして? 何度言わせんの、うちには赤んぼ――」
 苛立った一英が見ると、箸を止めた正義はテーブルの真ん中を見つめたまま呟いていた。
「どうして女って、何度も同じ過ちを繰り返すんですかね……」
「……なに急に? 女にふられでもした?」
「へ? んなわけないじゃん。男同士で恋バナなんて、カズくんキモい」
 すぐにおちゃらけはするが、明らかに普段と違い、時折暗くふさぎ込むような目をする正義に一英が眉を寄せる。
 と、客もまばらな店内にピロリンッという音が響いた。数秒あって、もう一度同じ音が鳴る。
 一英が正義の脇に置かれたコートに目をやると、しばらく微動だにしなかった正義は溜め息ついて残りのラーメンを集め始めた。
「母からのメールです」
 その言葉に一英が「母?」と素っ頓狂な声を上げる。
「嘘!」
「ほんと」
「え……いや……ごめん、いつ行っても見かけないから、あんたの両親死んでるもんだと……話題にも出ないし」
「生きてんすよ、どっちも。母はバツイチ独身で、近所で一人暮らししてます」
 近頃、瀬ノ塚塗装に顔を出すことの多くなった一英は、豊一郎やツネ子ともすっかり馴染みの顔になっていた。瀬ノ塚家が工場の隣にあることも、もちろん知っている。
 その一英が、いつ来ても祖父母や真由美にしか出くわさないのだから、そう思うのも当然だろう。
 コートのポケットをまさぐった正義は、取り出したスマホをマナーモードにしてしまいなおす。そして、丼を下げに来た店員にもう一度替え玉を注文すると、テーブルに頬杖し冷めた餃子を箸で刺した。
 まだ驚きを新鮮に引きずる一英の様子が、妙な笑いを誘う。
 だから正義は、真面目な顔では言えないようなことを、思い出し笑いでもしたみたいに笑ってから口にした。
「俺ね、こないだ母の彼氏と鉢合わせしちゃって。それが俺より年下らしくて」
 すると一英は予想通り、とんでもないことを聞いたという顔で再び声を上げる。
「なにそれ、マジで? え、お母さん何歳?」
「四十九」
「若ッ」
 相当センセーショナルだったと見え、一英は嘘だろとテーブルの向こうでのけぞった。再び身を乗り出してくる一英とは逆に、正義はけだるく箸を置き、背もたれに身を預ける。
「でさぁ、その彼氏とケンカしたから慰めにこいとか、別れたから愚痴聞きにこいとか、最近母からそんな呼び出しばっかされてて。ピロリンピロリンって、なんかもうほんと面倒で」
「うわー……それキツイな、いろいろ……。俺ならおふくろの恋愛事情なんて一番聞きたくねぇわ。しかも年下って……マジかぁ……」
「まぁ慣れてっけどね。俺より若いってのは初めてだけど、よく恋人作る人だから」
 頭の後ろで両手を組み、これといって大したことなど言ってない風の正義を、一英は呆気にとられて見つめる。余りにあけすけなその態度に、一英からは感心したような声すら漏れた。
 壁の時計に目をやった正義は疲れ切ったオヤジみたいな口ぶりで、「恋愛するのはいいんだけどねー」と大仰な溜め息をする。
「すぐケンカして、すぐ別れんですよ。勝手にやってくれりゃいいんだけど、そのたんびに毎度毎度呼び出されんのは、俺なんだもん。まったく、やってらんないよ」
「いやぁ、無理だ! 俺なら無理!」
 自分の母親がそうだったらと考えたらしい一英は、無理を連発しながら激しく首を横に振った。眉を八の字にした正義も、俺だって勘弁してほしいよと肩をすくめる。
「あの人をなだめられんのが俺しかいないから、こんなことになっちゃってんのよ」
 そう言った正義は、自分の母が少々常識に欠けていることや、相手をするのが大変なタイプだということを続ける。
「だから今度の彼氏とも、いつものパターンで上手くいかなかったんじゃないかなって」
 そこにラーメンが運ばれてきて、正義は惰性で左手を箸に伸ばす。
 俺は何しにここへ来たんだろう。
 一英にこんな話を聞かせようなんて、思ってはいなかった。母のことを知らない人間にわざわざ母の話をするのは、これが初めてだ。
 盛熊の仲間内にだって母のことを話題にするのは極力避けてきていたのに、今日の自分はどこかタガが外れている。
 これをヤケクソと言うのだろうか。なんだかもう、個人的なことを身勝手に話して、口から出たすべて無責任に捨ててしまいたかった。
 教えなくていいことを教えてしまったという後悔が押し寄せるが、まぁいいじゃないかという声もする。どうせ一英は母のことを知らないのだし、今後も知ることはないのだから。
 正義がはふはふとラーメンをすするの眺めていた一英が、頬杖のまま言う。
「あんたって母親と顔そっくりなんだって?」
「え?」
 一瞬、母のことを知っているのかと思い、心臓が飛び出しそうだった。
 正義は幾らか余裕を気取れなくなった目で一英を凝視し、いや知ってるはずはないと思いなおす。
「真由美ちゃんも似てるだろ。異常なそっくり家族って、絵梨香が結構前に言ってたの思いだした」
「そんなバカみたいには似てないですよ」
 舌打ちしたい気持ちと安堵が入り混じり、正義は苦笑とともにラーメンをすすりなおす。自分のいない間に絵梨香のやつがそんなことを話題にしているとは思わなかった。
 言葉の真贋を判定しようとしてか、単に興味が募るのか、一英がふうんと唸りながら正義の顔をねめ回してくる。「なんでそんなにじろじろ見るんですか? あぁ、あなたこの顔が好きだったんでしたっけ。それならこれ以上は有料にします?」などと毒づく代わりに、正義はラーメンを頬張ったまま無駄に微笑んでみせた。
 すると一英は、
「あんたのおふくろさんってどんな人? やっぱりいつも笑ってる感じの人なの? あんたみたいに」
と尋ねてきた。
「どんな人って……」
 悪気のない質問に浮かんだ答えは、ずっと忘れられない、あの笑顔だった。
 母を思う時に出てくるのが、結局あの極上の笑顔だけだということに、正義は瞳を伏せる。
 まるで雨上りの虹みたいに素敵だったのに、それはあれ以来現れず。
 そりゃそうだよ、ここは沖縄でもハワイでもアマゾンでもないのだから。この街に生きていれば、虹なんて一生に何度も見られるもんじゃない。そんなの仕方のないことだ。
「最近はあんまり笑わないけど、一番幸せそうだった笑顔だけは覚えてて――」
 守ってくれる男を一人失ったあなたの笑顔は、あの日のそれとはもう違う。だから、ずっと胸が痛いのだろう。
 正義は飲み下したラーメンが詰まってもいないのに、胸のあたりを拳で叩いた。そして、今日はもう何度目か解らないくらいの溜め息をつきながら、もそもそと餃子を食む。
「……なんか昔はよかったなぁとか思っちゃうんだよねぇ。そんなの言っても仕方ないんだけど」
「あぁ、それで怒ってんだ」
「いや怒っちゃいないですよ。ただ面倒だなって思うことがあるだけで」
「でも言葉の端々に怒りが感じ取れんぞ」
「嘘でしょ? やめてよ、笑顔が取り柄なんですから」
 正義が困ったように笑えば、一英も白い歯を見せた。
 典子本人を知る者は、奔放な彼女を軽蔑の目で見ることがほとんどだ。
 ほんの少し聞かせただけだが一英からはそういった非難を感じ取ることができず、その寛大な無節操さに正義は胸を撫で下ろす。
 残り二個となった餃子の一つが、正義の口の中に放り込まれた。
「怒ってるっていうより、ただたまに忘れたくなるだけです。母のこと全部。ほっといたらどうにかなっちゃうような人だから、心配ばっかりしちゃって。だからほら、年忘れで花火をドカンとやりたくなるっていうね」
 素直に笑う正義に、一英は「そういう後ろ向きな花火だったのかよ」と鼻にしわを寄せ、最後の餃子を口に入れる。
「まぁ、それで気が済むなら打ち上げりゃいいんじゃねぇの、花火くらい。俺も嫌な事あるし、少しカンパするわ」
 一英が、カンパのため瑠奈に突っ返された婚約指輪を換金しにいくと言うと、正義は「まだ持ってたの、怖い」と笑った。
 厨房から上がる湯気が、冷たい窓を泣かす。





 
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