>NOVEL>葛飾、最後のピース>ジャスティー編

第15話
守らなきゃならないもの
 

 その翌日の晩。仕事を終えた正義と一英は、忘年会フェスのポスターを貼ってもらおうと、新小岩駅北口付近の店舗を回っていた。駅前だというのに狭い路地を入り、ニット帽のポンポンを揺らしながら正義は馴染みだという飲み屋の戸を引く。
 和風の店先は小ぎれいに竹のオブジェがあしらわれ、赤ちょうちんがぶら下がっている。見ようによっては蕎麦屋のようにも見える外観だった。
「タッカコちゃん」
 昼間は食堂をやっているというカウンターで、やたら背の高い、顔も真ん丸、体も真ん丸なおばちゃんが立ち上がった。
「あッ、ジャスティー! あんたよく来れたわね!」
「へへ、久しぶり」
 上品な藤色の着物に身を包んだタカコは、酒やけとも違う低めの声を上ずらせながら、カウンターで一緒に飲んでいたおっちゃん相手に正義をなじる。
「この子ったら、去年くらいからめちゃくちゃ冷たいのよ! なんだか曾郎(ひいろう)とかいう青年と新しくツルんでるらしくさ、アタシとの約束あっさりすっぽかしてんの、ホントあったまきちゃう!」
「そいつぁ嘘だな! オンナできたに決まってらぁ」
「ちょっと! アタシがそこらの小娘ごときに負けたってこと?」
 がははと笑う陽気なおっちゃんを尻目に、タカコは一英を指さし、
「あんたが曾郎じゃないでしょうね!」
と巨体を揺らす。その恐ろしいまでの声量と圧迫感におののき、一英は「そうです、俺がヒーローです」と名乗り出る勇気もなく、ただ首を素早く横に振った。
 どこでどう誤変換され伝わったのか、この街には曾郎という名の男がいるらしいことを否定もせず、正義もただニカっと笑っておく。
 微笑む正義がべろんっと広げたポスターを、タカコが訝しく睨みつけた。
「タカコちゃ〜ん。これ貼って欲しいんだけど、い〜い?」
「まったく、ホントに厚かましいわね! あんたはもうそういうところが……なんて言うの? あぁ、もうヤダ! なんなのその、僕は無邪気ですーみたいな笑顔! あんたがそんな顔するときの下心なんてバレバレなのよ?」
 なんと言われても愛らしげな笑顔を崩さずにいると、タカコは吠えるようにもだえ、地団駄する。
「もう、とにかくはやく戸を閉めて、中入りなさい! 開きっぱなしじゃ寒いのよ! そしてなにか食べていきなさい!」
 タカコは正義から奪うように受け取ったポスターを、興味深そうに覗き込む。そこには忘年フェスのキャッチコピーである、
『忘れられない年末を! きっとあなたに会えますように!』 
という文字がでかでかと刷られていた。呆れたタカコが一英の腕をバシンと叩く。
「なにこれ、忘・年・会にかけてんの? 大喜利でもやるつもり?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「あら? あんた近くで見たらちょっと男前じゃない」
 愛想笑いの一英が、タカコの指定した壁にポスターを貼り始める。
 タカコから質問攻めにあう一英をにやにやしながら眺めていた正義は、空腹をそそのかす牡蠣のバター醤油炒めに鼻を鳴らした。
 広めの店内は満員で、そこかしこから聞こえる客の注文に、料理人がカウンターの中から声を返している。牡蠣バタ醤油以外に選択肢はないなと思いながら、正義は消炭色をしたダッフルコートのトグルを外す。その耳に、聞き間違いを疑う会話が飛び込んできた。
 酔っ払いの笑い声ばかりが聞こえ、ざわついた店内では客同士のやりとりなどろくに聞き取れもしない。それなのに突然聞こえてきたその声に、正義は笑顔を失った。
 それは独り言のようにも聞こえたが、見れば店の片隅に男が一人、スマホを耳に当てる姿がある。ブリーチして傷んだ金髪がひどく目立っていた。
「それがマジうけるババァでさ。ほら俺、配達やってんじゃん。で、そのババァはネットショッピングばっかしてて、俺が週に二回くらいは配達に行ってたんだよね。んで、たまに雑談するようんなって、そのうち、仕事終わったらうちにおいでよ〜、とか言われてさ。ババァにしては美人だったから、まぁこっちは遊びのつもりでさ。でもだんだん、向こうが本気になってきてよォ」
 ポスターを貼り終え「なに食う?」と近寄ってきた一英が、人形のように動かない正義の、あまりに殺気立った視線をたどる。
「なのにこないだ、別の男と部屋の前で会っちゃってよ。それってなんか、すッげームカつかねぇ? ――だろ? こいつ俺に本気になってっくせに、なに別の男連れ込んでんだよとか思ったら、ムカついてソッコー引っぱたいちゃってよ。ババァ唇切れてんの。アハハッ。昨日もぶん殴っちゃったよ。ぶん殴ってからヤんのも結構ハマる!」
 正義は血の気が引いているのか頭に血が上っているのか、自分でもよく解らなかった。ただ何も考えられなくなり、そこにいる見覚えのある男から目が離せず、握った拳が震え出す。
 眉間にしわを寄せた一英が、困惑したように正義と金髪男を見比べていた。
 なにかを言いたげな一英だが、それを言わせぬよう正義は目を閉じ、深く息を吸う。そして左手首のブレスレットに触れ正気を奮い立たせると、すっと踵を返し、タカコに礼を言った。
 他にも回らなきゃならないから、また今度。そんな言葉をいつもの笑顔と明るい声で残し、引き留めようとするタカコに手を振って店を後にする。
 戸を出ていくスカート姿に金髪男が顔を上げた気がしたが、一英も慌ててタカコに頭を下げ店を出る。速足で立ち去っていく背を一英が追いかけた。
「なぁ、あれもしかして……」
 追いつくなりかけられた声に、正義は肩越しに素っ気なく答えた。
「うん。母の元彼」
「この辺のやつなのか?」
「さぁ」
 一英は何度もタカコの店を振り返り、正義はそれを置き去りにする勢いで道を何度も折れ曲がり突き進む。もう少しでたつみ橋交差点に出てしまうのに、足はどこに行くあてもなく速まるばかりだった。
「待てよ。いいのか、ほっといて。あいつ殴ったって言ってたぞ」
「昨日の時点でもう二人は別れてる。終わったことじゃないですか。俺がどうこうすることじゃない」
 今にも走り出しそうな正義の肩を一英がつかんだ。予想以上の力で歩みを止められるが、正義は目だけは前に向け続ける。
「待てって。なんだそれ。母親殴られて黙ってんのかよ、なんで、そんな平気でいられんだ」
「……平気じゃないですよ」
 抑えた声の割に、大量の吐息が白く辺りを舞う。正義は振り向きざまに肩を払い、湧き上がる怒りを隠しもせず一英を見つめ返した。
「ぶん殴れるもんなら、ぶん殴ってやりたいですよ」
 一英が言葉を失う。
 正義は開くことができないほど力む拳を、そのままコートのポケットへと抑え込んだ。
「でもできないんですよ。前から言ってるじゃないですか。僕は非暴力主義です。だから暴力なしで勝てるあなたに憧れたんだって」
「……」
「暴力は破壊しか生まないからダメなんです」
 一英はしばし黙っていたが、正義の言葉を噛みしめるように、強くこめかみを浮き立たせた。
「それが本当の主張なら、いつもの笑顔で言ってみろよ。……あんた、なんか変だぞ」
 そう言われて、笑みを作るための表情筋がひとつも動こうとしないことに気づく。正義が泳いだ目を伏せると、一英は険しい顔で辺りを見渡した。
「とりあえず、おふくろさんの様子見に行ったほうがいい。男に殴られて平気なわけないぞ」
 正義は苦しげな溜め息をして頷くと、背を押した一英に連行されるように西新小岩へと向かっていく。
 訪れたマンション前で正義が立ち止まると、ここかと呟いた一英は「ちゃんと行けよ」と猫背に念を押す。正義はその言葉に無言で頷き、ふいと背を向けエントランスへ入っていった。
 スカート姿が消えるまで見送った一英は、手にしていたポスターを小脇に挟み駅方面へと戻っていく。小走りする一英が見た腕時計は、二十時半過ぎを指していた。まずはラーメンでも食べてから、あとは二十二時を回るくらいまで宣伝活動を続けようと街灯の下を歩く。
 途中すれ違った通行人がすぐ横を駆け抜け、やはりどこも師走だなと顔を上げた一英は、走り去るその背を振り返る。
「……」
 正義は一英と別れた後もしばらくエレベーターのドアを見つめていたが、どうしても壁についたボタンを押すことができず、エントランスを引き返していた。
 ニット帽を深く下げ、逃げるようにマンションを飛び出せば、舗道に見えた人影に思わず息を呑む。その影が提げたレジ袋はシルエットを角ばらせ、見なくても解る中身を突きつけてくるようだった。
「ヨシくん……」
 そう驚いて見開いた目元は暗くても解るくらいに黒ずみ、切れた唇も腫れ上がっている。
 正義が立ちすくむと、典子は張りつめていた糸が切れたように泣き顔となり、レジ袋をその場に落とした。駆け寄った母はためらいなく息子に抱きつき、その肩に顔をうずめる。
「……あたしのこと、好き?」
 声を殺して泣く典子は、正義の耳元ですがるように囁いた。
 正義は母の身を抱き返さないまま、ただ突っ立って身を貸す。ぼんやりと夜空を見上げるが、星など一つも見えなかった。
「ねぇ……好き?」
 この人が俺に求めるのは、その問いに許された唯一の答え、それだけなのだろうか。
 母の嗚咽を肩で感じながら、自分が相手すらしなくなったらこの人はどうなるのだろうと考える。自分が母の命をつなぎとめる最後の綱だと思うと、身を切られるよりずっと怖かった。
 そこへ、騒がしく駆けてくる足音が聞こえ、正義は近所の人間にこんなところを見られる気まずさから顔を背ける。だが駆けてきた人物は寄り添う二人を認めるや、一見ガウチョパンツにも見えるスカートを履いた男へと、夜の住宅街に響く大声で叫んだ。
「人の女に手ェ出してんじゃねぇ!」





 
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