>NOVEL>葛飾、最後のピース>ジャスティー編

第16話
破ってしまったもの
 

 突然掴みかかってきた手で母と引き離され、正義は叫んだ男を振り向く。鬱陶しい金髪が街灯に照らされていた。激しく息を切らせている男を、正義が鋭く睨みつける。
 驚いて二人を見比べた典子が、いつになく憎悪をたぎらせた正義の目に怯え、その腕を抑えた。
「ヨシくん、ケンカはダメよ。やめて」
 正義はその言葉に頷きこそしなかったものの、大人しく母の腕を引きマンションのエントランスに入ろうとする。
 この男がどんな誤解をしていようと、それを解く必要はない。
 自分には関係ない相手なのだから、このまま立ち去ればいいはずだ。
 だが嫉妬に狂う男は典子の腕を掴み、振り回すようにして奪い去ろうとしてくる。強くしがみついていた指が剥がれ、尖った赤い爪が正義の手の平を掻いていく。
「てめぇ!」
 削れた爪痕の痛みにも気づかず、正義は咄嗟に男の胸ぐらへと掴みかかった。男のジャンパーが手の中で捻じれる。
「せっかく堪えたのに……なんで店から出てくんだよ……?」
 湧き出た低い声は直接に内耳へと響き、脳のあたりから走った衝動に正義の目の色が変わる。
 すると男も胸ぐらを掴み返してきて、柄悪く怒鳴っては、こいつは俺の女だから俺がどうしようと勝手だなどと騒ぎ立てた。だが男の言っていることなど正義にはどうでもよく、ただ殴りたい衝動が全身を支配し、左の拳に力がこもっていく。
 そんな、今にも殴り合いが始まりそうな光景を見つけたのは、一英だった。暗い交差点から飛び出してきた一英は、やっぱりかと舌打ちし、走り去った男を追いかけてきた足を更に速める。
 交差点を一つ隔てていても、男二人を引き離そうとするヒステリックな声がこだましていた。
「だめよ、ヨシくん! 解るでしょ! 暴力は破壊しか生まないの!」
 暴力は破壊しか生まない。その聞き覚えのある言葉に、一英が眉をひそめる。
 見ればその言葉を受けたせいか、先に仕掛けそうなほどいきり立っていた正義が、悔しそうに顔を歪める姿があった。動けなくなったその隙に、吠えた金髪が躊躇なく正義を殴り飛ばす。
「ヨシくん!」
 正義はよろめきながら、打たれた場所から冷たい感覚が広がっていくのを感じていた。顎に衝撃が走って脳が揺れたというのに、不思議と痛みを感じない。
 全身を侵食していくのは冷たさばかりで、わずかに痛いのは胸だけだった。
 ニット帽が脱げ落ち、ふらふらと地面に手をついた正義にどこからか怒鳴り声がかかる。
「なにやってんだ、瀬ノ塚ァ!」
 帰ったはずの一英の声に、正義はハッとして顔を上げた。ぼんやりし始めていた意識が引き戻されていく。
 呼び声に振り向いた男が「誰だテメェ」とすごみ、一英を睨みつける。だが一英は、正義を殴ったばかりの拳を切り落とさん勢いで「うるせぇ!」と怒鳴り返した。
「そいつが誰かも知らねぇ潜りはすっこんでろ!」
 駆け寄ってきた一英がまくし立てるのを見つめながら、正義はひざまずいたまま、ぐにゃりと顔を歪める。右手は、疼く左手をブレスレットごと握りしめていた。
「……わかんないよ……」
 苦しげな呟きが唇から漏れたが、それ以上は言葉にならず、思いだけが胸で渦巻く。
 教えてよ。ほんとのヒーローならこんな時どうするの。
 母さん、ごめんなさい。
 暴力なしでどうやってあなたを守ればいいのか、俺はいまだに解らないんだ。
 あなたはどうして、こんな難題を俺に与えたの。
「ふざけんじゃねぇぞ、典子、三股かけてやがったのか、てめぇコラ!」
 正義が頭上の怒鳴り声を見上げると、男が無造作な金髪を振り乱し、典子の長い髪を掴んでいるところだった。
「スカート履いてる男と浮気とかマジキチーんだよ! こんな気色悪いのと同じ穴にぶちこませてんじゃねぇ!」
「ヨシくんの前でなんてこと言うのよ! ヨシくんは何も関係ないって言ったじゃない! もうやめて!」
 典子は髪を引っ張られ、正義は抗いながらわめくその姿を無力な目で追いかける。手首を抑えたまま何もできない正義を一瞥し、一英がもめる二人の間に割って入った。
「やめろ!」
 一英が引き離そうとするが、暴れる男はまだ典子の髪を振り回す。
「ヨシくんヨシくんって、なんなんだよ、あぁ! お前そんなにそいつのことが――」
「あんたこそ、あたしのことなんかもう好きじゃないって言ったじゃない! だったらさっさと目の前から消えてよ! 二度と現れないで!」
「なんだと!」
 典子の言葉にカッとなった男は、一英の腕を力ずくで振りほどく。
 母が殴られる――正義がそう思った瞬間、男の頬に典子の平手が飛んだ。
 破裂するような音が高らかに打ち鳴り、その音と映像に、正義は震えるような目を見開いた。
 なんて胸を締めつけるひどい音なんだろう。この苦しい音をいつだかも聞いたような気がする。
 爆発的に心臓が打ち鳴った。

 ――あたしのことなんか本当は好きじゃないくせに!
 さっさと目の前から消えてよ!
 二度と現れないで――!

 同じ光景を見たのはいつだったろう。
 正義は逆光に目を凝らすような仕草で、すり抜けそうな記憶を絡めとる。
 だが幼すぎる記憶が呼び覚ますのはその体感だけで、胸を突くような苦しさが生々しくこみ上げてくるだけだった。
 あの時母に打たれたのは、もしかすると父だったのかもしれない。思い出すのは息苦しくしゃくりあげていた自分の呼吸だけだが、そう思えた。

 おかあさん、やめて。
 ケンカはやめて。
 おとうさんはおかあさんがだいすきなはず、おかあさんはおとうさんがだいすきなはずでしょ。

 そう言いたくて母の腕にしがみついたことが、胸の痛みとともに蘇る。
 その願いを聞かず突き飛ばしてきた母の姿も、現実と見紛うほど鮮明に溢れ出してくる。
 今一度ビシャッと打ち鳴る音にハッとすると、今度は典子が頬を押さえていた。長い髪が舞い、倒れそうになる母の姿に、一切の思考が停止する。
 すると突然、金髪男の顎が鈍い音を上げた。
 典子が言葉にならない悲鳴を上げ、正義は知らぬ間に立ち上がった自分が、猛然と男に殴りかかったことを知る。
 男は殴られた勢いのまま惰性で崩れ落ち、人形のように膝から地に倒れ込んだ。
 ボクシングでしか見ないような一発KOに「嘘だろ」と呟いた一英が、すぐさま男に駆け寄り様子を覗き込む。
 倒れた男に目を落とす正義は、朦朧とする頭でわずかに眉を寄せた。自分がまた人を殴ったことは、思考を介さずとも明らかだった。
 典子が自らの顔を手で覆い、何もかもが嫌になったとばかりに泣き始める。
「ヨシくん、ごめんね。馬鹿な女でごめんね」
 そう言って泣く母の声が、幻聴じみて聞こえてくる。停止した思考はまだ戻らず、正義はおぼつかない感覚の中で一英の介抱を見つめていた。
 くぐもって聞こえる母の泣き声が、しくしくと続く。
「男の人に好きって言われれば、馬鹿だから嬉しいのよ。それで結局、いつもこんなことばっかり……。最後にはみんなあたしを嫌うの。ねぇどうして? どうしてあたしは男の人に愛してもらえないの?」
 すっと、母の手が左ひじに絡んできた。
 人を殴ったというのに、母はその腕の中に平気で身を滑り込ませ、すがるような泣き顔を胸に押し付けてくる。
 正義は典子の細い指が目に入った途端、はかなさを彩ろうと懸命なその姿に突然の寒気がした。慰めてと言う代わりに、手の平が胸板をゆっくりと這い上がってくる。
 その感触は、毒持たぬ蛇が獲物を締めつけようと忍び寄るのに似ていた。
 撫でられた胸からざわざわとした嫌悪が広がり、その愛撫が決して息子に求められるべきではない欲求を訴えていることに気づく。
「どうして……」
 ずっと麻痺させていた感覚が呼び覚まされ、もう何年もねじ伏せていた現実が身の毛を逆立てた。情欲を帯びて触れられることにも、一英がそれを見ていることにも耐えられなくなり、正義は母の腕を強く振りほどく。
「どうしていつも、そういう言い方しかできないんだ! もうやめろ!」
 怒鳴られた典子はびくりと体を震わせた。
「……ヨシくん……?」
 正義の大声が聞こえたのか、気を失っていた男が地面で唸る。その様子に正義は苛立ち、路上に放り出されていた牛乳パックを拾うや、その中身をうめく男にドボドボとかけ始める。
 慌てて立ち上がった一英が、正義の粗雑な所作をとがめるように牛乳パックを取り上げた。
「もういいだろ、そんなしなくても気づく」
 正義の冷たい表情を一英が心配そうに見つめる。その視線すら叫びたくなるほど鬱陶しく、正義は一層の腹立たしさを覚えた。のっぴきならないような焦りが苛立ちに触発され、体の中を駆け回っては脳を鷲づかみにしていくようだ。
 目覚めた男がなんとか現状を把握し、牛乳を滴らせながらよたよたと立ち上がる。一英が手を差し伸べるが男はそれを払い、正義のほうを見ようともせずふらつきながら逃げていった。
 金髪の後ろ姿が見えなくなるよりも早く、正義は物言わぬままその場を走り去っていく。一英は狼狽する典子にすぐ部屋に戻るよう告げ、またあいつが来たら正義に連絡するよう言い残し、彼の後を追った。
 駆け足で追いかける一英を、それよりも速いスピードで逃げる正義が振り返って叫ぶ。
「ついてくんな!」
 正義は男が逃げた方向とは真逆へと駆けていく。
 追手を振り切ろうと速度を上げ本気の走りで逃げていく背中に、二年前の自分が重なって見え、一英も速度を上げる。





 
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