>NOVEL>葛飾、最後のピース>ジャスティー編

第17話
それに価値があるとしたら
 

 いまや区内限定方向音痴も返上した一英から逃げ切るのは、地の利が五分となっただけに不可能だった。
 典子の住むマンションから交差点をめちゃくちゃに曲がって逃げるうち、正義は昔通っていた中学校の校門にぶつかり右へと駆け抜ける。春になると見事なトンネルになる桜並木を行くと、左手に公園が見えた。
 こっちに曲がらなければ良かったと後悔するが遅く、視線をくゆらせた正義の走る速度が落ちる。
 そこは敷地だけは広い、シーソーと砂場しかないような簡素な公園だった。ここでも母に抱きつかれたことが、嫌でも思い出される。走りすぎた不快感からか、胃のあたりがぎゅっと浮き上がる。
 吐き気を催し、ついに足を止めた正義は苦しそうに両膝へと手をついた。肩で息をするたび、乾燥した空気で喉が張りついていく。咳き込むうち、思い出したくもないのにその日は雨だったことが蘇った。
 中学一年の一学期も半ば、梅雨の時期だった。正義は下校途中にこの公園で傘を差しながら、数人の友人と落ちていたサッカーボールを蹴りあっていた。
 そこへ買い物帰りでもない、雨の中をただぶらぶらと歩いていただけのような典子が通りかかり、若作りな声がかけられる。
「ヨシくーん!」
 公園の外から手を振る典子に、小学校から同級生だった友人たちが会釈する。
「ノンちゃんだ。あいかわらずちょー美人」
「いいよなぁ、ジャスティーは」
「ノンちゃん、俺にも手ェ振ってー」
 友人たちのささめきは典子には届かず、正義も声掛けに答えなかった。
「ちょっと聞いてるのー、ヨシくーん! 誕生日おめでとう〜!」
 正義は年甲斐もなく浮ついた典子を一瞥しただけで、上手くもないリフティングをしながら公園の奥へと逃げる。そんな正義に頬を膨らませ追いかけてきた典子は、赤い傘を放り投げ、嫌がる息子の背に抱きついた。
 友人たちが冷やかすような声を上げ、まさか抱きつきにくると思わなかった正義は身をよじる。
「やめてよ……!」
 反抗期然として怒鳴りつけることなどできなかった正義は、小声で典子を制そうとする。水たまりの中でもみ合ううち、正義の差していたビニール傘も勢いで吹き飛んだ。
「ちょっと、母さん!」
「母さんじゃないでしょ、ノンちゃん!」
「いいから離してっ……てば……!」
 友人の前でどれだけ恥ずかしい思いをさせられたかなんて、きっと母には解らなかったのだろう。だからあの人は今でもあんなふうに俺に抱きついて、俺に触れることができるのだ。
 あの時母が背に押し付けてきた胸の弾力や、抱きしめてきた手がどさくさ紛れに下腹をまさぐる熱が蘇り、正義は思わずその場でえずく。
「ジャスティーも大変だよな」
「でもノンちゃんが母ちゃんなら、抱きつかれてもよくね?」
「いいね。俺なら許す」
「俺も」
 遠巻きに眺める友人らのそんな会話が、母にも聞こえていたことは知っていた。だからこそ、中学生の評価なんかで明らかに気を良くする母が、愚かしくさえ思えた。
 友人の前で抱きつき続ける母は雨に濡れてもお構いなしで、自分は許されていると完全に勘違いした目で見上げてくる。媚びて身をしならせる母に、あの時も吐き気がしていた。
「ねぇ、あたしのこと好き? あたしのこと大事?」
「頼むから、離してって……」
 典子の肩を掴んだ正義が多少乱暴に突き放すと、典子は「なによバカ!」と眉を吊り上げた。
「ほんとは好きなくせに! 好きなら好きって、今日くらい言ったっていいじゃないのよ!」
 そう叫びながら最後には吊り上げていた眉も下がり、悲痛な泣き顔となった典子は公園を飛び出していった。忘れられた赤い傘が水たまりに転がる。
 母がずっと愛用していたその傘を持ち帰り、こっそりと、だが本気でへし折って捨てたのはその夜のことだった。お気に入りの傘を失くしたと長らく泣き続けていた典子に、今でも罪悪感と嫌悪感が入り混じる。
 最悪の誕生日だった。
 そう思いながら、正義は酸っぱい唾液を路上に吐き捨てる。
 背後から主の解る足音が駆けてきて、すぐそばで止まった。乾いた咳を連発させているその存在が、荒い息の合間に言う。
「暴力のこと……こだわるのは、おふくろさんとの約束だったんだ?」
 正義は和らぐ気配のない吐き気にもう一度えずき、この寒空に汗ばんだ顔を上げる。出た声は思った以上に小さかった。
「ずっと守ってきたのに……この手見てよ、一瞬で汚れちゃった」
 正義は左の拳を一英の前に突き出す。白い息を大量に吐きながら拳をじっと見つめてくる一英に、鼻の奥がじわっと痛んだ。
 滲む一英が小さく首を横に振る。
「汚れちゃいないよ」
「汚れてるよ。ダメなんだよ、こんな汚れてちゃ……」
 汚らわしそうに正義の顔が歪み、その右手は左の拳を何度も何度も、常軌を逸したように擦り始める。見かねた一英が「瀬ノ塚」と手を伸ばした。
 だがその手が触れる前に、正義は怯えたように身を縮め、後ずさる。
「殴らずに済む方法があったはずなんだ! カズくんなら思いついたんでしょ? なのに俺は殴るしかできなかった、考えてもそんな方法思いつかないし、考えることもできないし! ただもうぶん殴りたくて、ぶん殴るしかなくて……」
 言いながら正義の目から涙が溢れ、本人がそれを隠しもしないのに一英はふいと目をそらす。
「俺は俺、あんたはあんただ。あんたが殴る以外に思いつかなかったんなら、それでもういいじゃないか」
「よくねぇよ!」
 怒鳴った正義の大声に、ちらほらと帰路を行く通行人の目が集まる。一英はその視線に軽く頭を下げてから、正義にだけ届く声でゆっくりと言った。
「……確かに暴力は破壊しか生まないのかもしれないよ。でも、破壊されるのを待ってるもんがあるなら、暴力に価値がないわけじゃないだろ?」
 正義はその言葉に困惑した眉をひそめる。
 破壊されるのを待っているものなど、自分のそばにはひとつもない。すべてが必死で現状を繋ぎとめようと、頑なに絡みついているだけだ。
 そう、すべてが絡みついている。絡みついて解けないのだ。
 なぜ自分があの人を支えなくちゃならないのかが解らない。どうして自分だけが、あの人の期待に応えなくちゃならないのかが解らない。母親らしいことなど何ひとつしないのに……。
『――あぁ、それで怒ってんだ』
 数日前に一英から言われた言葉が、耳に舞い戻った。
 正義が自虐的な笑みを口元に浮かべる。
「あんたの言うとおりだよ。俺きっと、あの人のことめちゃくちゃに叩きのめしてしまいたいくらい、憎んでるんだ。あの人が俺にしたこと全部消してしまいたいし、いなくなればいいと毎日思ってる。ただの女になったあの人を軽蔑してんのは、あの金髪なんかじゃない、誰よりもこの俺なんですよ」
 最後に見た母の笑顔と、ギザギザの十円玉が、ずっと圧し掛かってきていた。最後に見たあの笑顔が、最後に見た『母』だった。あれ以来、何をどうしようと、母は帰ってこない。
「見りゃ解るでしょ? あの人は俺を男として利用してるだけだ。俺に母親はいない。そんなもの、どっかいっちまった」
 そらした目に、近所の家で光るイルミネーションが歪んで滲む。
 クリスマスに浮かれる街は嫌いだ。いい子にしていたってサンタは本当に欲しいものなどくれない。俺のお母さんを返してくれるなら、俺はなんだってする覚悟でやってきたのに。
 ままならぬ思いに苛立ちが募り、正義はしんしんと冷える風に行き場のない溜め息を乗せた。
「全部、あの笑顔のせいなんですよ。あの笑顔とギザ十さえなければ、俺はあの人をめちゃくちゃにすることだってできたんだ。なのにあの人は……あんな初めの数年だけ見せた笑顔とか、ちっぽけな金属でずっと俺を縛り付けて、逃げられないようにして。守ってって……愛してって……」
「あんたが本当に守りたいものって、なんなんだよ」
 黙って聞いていたはずの一英が問いかけ、正義の喉が詰まる。
 俺が――本当に守りたいもの?
 一英を見つめ返した正義の目が、言葉の代わりにそう問い返した。
「ヒーローっつーのは、なにかを守るために戦うからヒーローって呼ばれんだよ。あんたが守るのは? 『ただの女』が泣きながら押し付けた『約束』か? そんなもん守るのがあんたの言ってるホントのヒーローってやつなのか?」
 正義は混乱するばかりの目を閉じ、散らかり続ける頭の中をさまよう。そこには母の残した言葉が幾重にも、至る所で折り重なっていた。
『ヨシくんは正義(せいぎ)そのもの、ほんとのヒーローね』
『あたしにはもうヨシくんしかいないの。あたしを愛してくれる男の人はヨシくんしかいないの』
『ヨシくんが一番大好きよ、だからあたしのことヨシくんがずっと守ってて』 
『暴力は破壊しか生まないの!』
『あたしのこと、好き?』
 正義は頭を振り、「わかんないよ」と呟く。それが母に向かってなのか一英に向かってなのかは、自分でも定かでなかった。
 だが目を開けばそこに一英がいる。
「何が言いたいんだよ……。俺には守らなきゃならないものばっかりだ。どうせカズくんには解って、俺には解らないことなんだろ? あんたはほんとのヒーローだから何でも解るかもしれないけど、俺は違う。俺に解るのは、俺がこの拳を振り回せば、今まで守ってきたものがすべて壊れてしまうってことだけだよ」
 正義は恨みがましく一英を見上げるが、一英は堂々と正面向いてこちらを見つめていた。一英は何も言おうとしない。
 その目に耐えきれなくなった正義が自己嫌悪に淀んだ瞳を伏せると、突風のようにうなりを上げ飛んできた何かが、彼の頬に強くぶち当たった。





 
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