>NOVEL>葛飾、最後のピース>ジャスティー編

第18話
猛魚
 

 なんの前触れもなく襲ってきた痛みに正義が目を見開く。手の平を振り切った姿の一英を見てやっと、今の衝撃が平手打ちであったことを知った。
 一英は打った手をぶらつかせ、悪びれもなく眉を上げる。
「こんなの、ちょっと振り回した手が当たっただけだろ? これくらいでガタガタ言ってっから『女』に利用されたくらいでビービー泣くんだ」
「……」
 打たれてもなお反応の薄い正義に呆れ、一英はその腕を引っ掴むと公園の中へと連れ込んでいく。枯れた雑草がでこぼこの地面を露わにし、二人の足元から乾いた土が舞った。
「あんたにあいつを殴れってそそのかしたのは俺だろ? だったら俺のせいにして俺を殴れよ、ほら。相手してやるから」
 情けない顔で唖然としている正義を、一英は大げさなしかめっ面で覗き込む。
「まさか俺のことも殴れねぇとか? チョークは決めるのに? 笑わせんなよ!」
 正義の応えを待たず再び平手が飛ぶ。左頬で派手な音がして、公園脇の大きなポンプ所にこだました。
 一英のビンタは、なぜだかとても痛かった。打たれた頬が腫れあがるように熱い。
 あの金髪に殴られても何も感じなかったのに、一英の与える痛みは寝た子を起こすように、痺れをともなって後を引いた。
 河から上がってくる冷たい風が熱い頬を撫でる。
 目にかかる前髪を上げもせず、正義はゆっくりとした指先で痺れる頬に触れようとした。だが間髪入れず、今度は逆の頬に痛みが走る。
 ボクサーぶって軽やかなステップを踏む一英が、まだ打つぞとばかりに両手の指先をほぐして笑った。
「あんた、暴力がなんでも壊せると思ってんだろ? 残念だよな、暴力ごときにそんな力はないんだから。それとあいにく、あんたと俺の間にもねぇんだよ、殴ったくらいで壊れるような繊細で重要な関係性なんかな」
 暴力がなんでも壊せる?
 自分はそんな風に思っていたんだろうかと、正義はぼんやりした頭で思う。
 顔を上げると、一英の目はやはり、真っ直ぐにこちらを見抜いていた。見つめ返す正義に一英はにんっと白い歯を見せる。それは、自己中な邪気を漂わせながらも、怒るに怒れない、根源的な無邪気さの漂う笑顔だった。
 それが『俺の笑顔』なのか『あなたの笑顔』なのか、正義は一瞬見分けられなくなる。
 一英は徒にニヤニヤしながら、正義の薄茶けた目の奥を覗いてくる。
「人ってのは案外、無節操なもんだぜ。昨日と今日じゃ言ってることがまるで別人でも、周りは大して驚かねぇし」
 それは出戻った彼だから言えることなのだろうか。
 一英は言い終わりにまたもビンタをかまし、ヒットアンドアウェイで遠ざかる。数度打たれた今になって、正義はやっと感覚を口にした。
「いった……」
 体の痛みは、胸の痛みを忘れさせる。あてもなく回り続ける思考を断ち切り、ふらつく意識を今この場へと連れ戻す。
 一英の言うとおり、殴ったくらいで壊れるような繊細で重要な関係性など、なければいいのだ。この世界がぜんぶ、粗雑で瑣末なら。そしたら、記憶の上塗りも思念の書き換えも、なにも恐ろしくはないじゃないか。
 あまりにもリアルな痛みに、正義はゆっくりと自分の両頬を撫で上げた。溜まりに溜まった水が溢れ堰が決壊していくように、胸の奥底から言い知れぬ興奮がだだ漏れる。
 涙と薄ら笑いが込み上げ、いつの間にかそそのかされた左手も、ブレスレットを揺らして疼いていた。
 すると、またしても風が鳴った。
 だが今度はその風に、正義は咄嗟の腕を構える。衝撃を受け止めた尺骨が心地よく感じられ、正義はとうとうはっきり焦点のあった目でにやりとした。
 その笑みに一英が上着を脱ぎ捨て、懇願ともとれる唯一のルールを口にする。
「ゲンコはなしな」
「――ふざけんな、馬鹿野郎っ!」
 口があったら笑い声をあげていたかもしれない左手を、一英の頬に振り抜く。一英のそれよりも数倍高い音を上げ、正義の一発が響き渡った。
「いってぇ!」

 ◇

 拳はなしとは言ったもののいつしか平手だけでは飽き足らず、二人は取っ組み合ったり飛び蹴りしたりと、夜の公園で結構なケンカ状態を披露していた。それなりの手加減はしあうもののプロレスさながらの攻防に、もんどり打って転がった正義がはたから見れば狂気じみた大笑いをする。
 二人の周りには息苦しそうな呼吸がかぶりあう音と、汗の香が漂っていた。
「あーカズくん、これマジで痛いなぁ! 寒いから余計痛いのかなぁ! 痛くて痛くて、痛いってことしか考えられなくなってきたよ!」
「花火より安上がりじゃん」
 正義が蹴っ飛ばされた尻をさすりながら「加減してよ」とにやつくと、一英からは「そっちこそ、キラー・カーンみてぇなチョップしてんだよ」というしかめっ面が返った。
 酸素をむさぼるハイペースな呼吸は、冷えた夜風が肺に痛いほどだった。きっと魚だって、同じだ。長く陸に打ち上げられていたあと水に帰れば、こんなふうに死に物狂いで、エラを不様にはためかせるのだろう。
 一息ついた一英が、真っ赤になった鼻をこする。その隙を狙って立ち上がった正義は、尻を蹴り返そうと一英を追い回した。
「まだやんのかよ!」
と騒いで逃げた一英が砂場で足を取られ、追いつかれた正義にかかと落としを蹴り込まれる。
 そこへ突然、ピーピーと耳をつんざくような甲高い音が響き渡った。二人が振り返ると、ホイッスルをくわえた警官が自転車で公園に乗り込んでくるところだった。
 殴り合いが通報されたらしいことを察するが、とぼけようにも、二人の吐息は夜が更けるにつれ白さを増し、隠しようのないくらい盛大に舞い散っている。
 でこぼこした足場に自転車をガタガタガタガタ言わせつつ、警笛でサンバのリズムを刻んでやってきた小柄な警官は、いつもたつみ橋交差点の派出所にいる顔見知りだった。
 警官のほうも二人に気づき、自転車を降りながら眼鏡越しの目を丸める。
「あれぇ、ジャスティーとカズくんじゃないの。なぁにやってんだ、こんな時間に」
 砂場で足を投げ出したままの一英がぜぇぜぇしながら警官を見上げた。
「青春の一コマ!」
 正義もはぁはぁしながら頷く。
「そう、エネルギーの健全な発散!」
「例えるなら今の気分は『お前、結構やるじゃねぇか』!」
「『ヘッ、お前もな』!」
 近所迷惑を美談じみて終わらせようとする二人に、警官は不愉快そうな顔をしかめた。
「はぁ? ちょっと、勘弁してよぉ、こっち呼び出されてんじゃないの。そういうさぁ、物騒なくせに前向き、とか紛らわしいんだよ。もっと人目につかないところで熱くなってくれる? そこらへんに幾らでもあるでしょ。メイクアップとか行って、ホント」
「えぇ? ラブホ?」
 警官のくせに普段からいい加減なこのオッサンは、眼鏡を押し上げて今日も適当なことを言ってくれる。失笑した一英を、適当チビ眼鏡ポリスは警棒でビシッと指した。
「あ! ケンカすんのになんで部屋代出さなきゃならないんだよとか思ってるでしょ! あのねぇ、ケンカもセックスも変わんないよ、実際。やってるほうも見てるほうも、大興奮しちゃうんだからさ。隠れてやってよ、ホントさぁ! まったくセックスなら喜んで金払うくせにさぁ!」
 子供が寝付くような時間にでかい声で下品な言葉を連発する警官こそどうなんだと、正義と一英は顔を見合わせる。その間もチビ警官は、聞き取れない言葉をガサガサとわめく無線に「エネルギーの健全な発散ということであります、どうぞ!」などと返していた。
 無線を戻したチビ警官が、伸ばした警棒で二人を順番につつく。
「っていうか、それ嘘でしょ、ほんとは仲間割れなんじゃないの? いつも仲良い二人、とか俺信じないからね?」
「そんなことないって、いまメッチャ絆深め合ってたとこだもん。ねぇカズくん」
「本当にィ?」
「ホントホント! ほら!」
 小刻みに頷く正義は、立ち上がって砂を払っていた一英にすぐさま抱きついて見せる。しかしチビ警官は疑いの眼差しで眼鏡を光らせ、正義は愛想笑いとともに一英の頬にキスまでして仲の良さを示した。
 そのキスに一英が魚の生臭さでも嗅いだような顔をし、チビ警官が叫ぶ。
「ほら、嫌そうな顔した!」
「ちょっとカズくん」
 正義の肘鉄を受け、一英も仕方なく笑顔を作る。するとチビ警官は嫌味ったらしく警棒を振りながら、二人を追い込むように小首を傾げた。
「じゃあ、カズくんからも仲直りのキスしなさいよ。そしたらおまわりさん、許してあげるから」
「だからケンカしてないって」
「へー、とりあえず交番行く?」
 警官が半笑いで手錠をちらつかせるのに折れ、一英も正義の頬に湿っぽいキスをする。今度は正義がぐぇぇと身をそらせた。
 そんな二人の拷問キス姿をまじまじと近すぎる距離で確認したあと、チビ警官はカットをかける映画監督ばりに強く手を打つ。
「はい、オッケー! これにて一件落着! あー、俺ってなんて敏腕ポリスなんだろう! ていうか、君ら、流血してっからね? ホント頼むよ? ハイ、消えた消えた!」
 公園から追い払われる二人は脱いでいた上着を拾い集め、「ちゃんと、手つないで帰りなさい!」という警官からの強制指示にしぶしぶ手を繋いでその場を去る。正義がふざけて一英の手をにぎにぎすると、公園の敷地を出た途端、ものすごい形相で振りほどかれボディーブロウをくらった。
 正義は歩道を歩きながら、一英を何度も平手打ちした手の平を眺め、いつの間にか切れていた口元の痛みに舌を這わせる。
「むふ〜、なんか解んないけど、異常にスッキリしたな〜」
「なにが非暴力主義だよ。暴力に訴えてるときこそ一番楽しそうに輝いてだもんな。マジであちこち痛いから、治療費よこせ」
「俺やっぱ、カズくん好きだぜ。ヒーローさん、かっこいい♪」
 正義のラブコールを完全無視して一英は歩を速める。それを追う正義は、ずいぶん猛っていた気持ちがすっかり落ち着いたのを感じていた。
 背後から自転車で追い抜いて行った警官が、振り返って手を振る。
「大忘年会やんだってね! 見回りがてら行くから! 楽しみにしてっから! じゃあね!」





 
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