>NOVEL>葛飾、最後のピース>ジャスティー編

第26話
そして、世界は生まれ変わっていく
 

 狭い歩道、肩をぶつけながら歩く背後から、けたたましいベルがあおりたててくる。自転車が猛スピードで近づいてくるのを感じながらも、この街で生きる彼らは慣れきったその警告を振り返ることはしない。
 自分の自転車を引いて歩く一英が、肩で正義を押しやる。
 ただそれだけで、二人は無駄のない阿吽の呼吸を示し、歩道の端を縦並びになって歩き続けた。風を切る自転車が追い越しざま、キィッと耳障りなブレーキ音をひとつ上げる。
「おぉうっ、ジャスティーじゃねぇか!」
 そんな酒臭い挨拶が残されてからやっと自転車に目を向けると、走り去るオッサンが背中越しに手を上げていた。
 笑い声とともにオッサンへ手を振りかえすスカート姿に、呆れた声がかかる。
「相変わらず、信じられないくらい区内に顔が広いな、あんたは」
 正義は、あんなやかましい自転車にも舌打ちすらしなくなった一英を、肩ごしに感じながら笑った。
 新年早々のまだ暗い空の下、一英が引いていた自転車をかついで小松橋の階段を上っていく。自転車自体は重くはないが、民家の屋根を軽く超える高さまで続く階段に、さっきまで飲み食いしていたすべてがリバースしそうだった。
 水蒸気となって散っていく息が鼻先の熱まで奪っていく。
「おい、これなんでわざわざ階段登らせた? 自転車用の坂登ってくりゃよかったんじゃねぇの」
「だって近道だから」
「ならあんたが担げよ」
 一歩一歩踏み出すたび文句を垂れた一英だが、それでも上りきり、頂上で自転車を下しながら気持ち悪いと呟く。一度も交代を申し出なかった正義がスマホを覗くと、時刻は朝の六時を回ったところだった。
 ごくうっすらと東の地平が赤らみ、天蓋から西には深い藍色が繋がる。上ってきた階段からは東南東が臨め、正義はいそいそとそこに座り込んだ。一英も仕方なく座る。
 橋を越えていくヘッドライトが、並ぶ二人の背中を照らした。
「はぁー、きれいだねー」
 年末年始になるとこの街の空気は決まって澄み渡り、あらゆる光が塵にぶつかることなく鮮やかに映える。それをきっと、他県に帰郷する者たちは知らないだろう。彼らがいない時にこそ、東京は真に美しい。
 正義は嬉しそうに空を見上げていたが、一英はニット帽の上にフードまで被りなおし、冷えた手をジャンパーに突っ込んで背を丸める。
「寒い。やっぱ帰ろうぜ」
 付き合いはいいくせにノリは悪いというその態度に、笑顔の正義は小学生ばりの本気で肩をゴリゴリと押し付けた。
「おーしくーらまーんじゅー!」
「やめろ!」
 一英は手加減なしでギュウギュウしてくる正義から逃げ、立ち上がって橋の欄干に寄り掛かる。冷たい鼻先をカイロにうずめながら力なく下を覗き込むと、慣れ親しんだ黄色い電車が駆け抜け、十本くらいありそうな線路が同じ方向へと仲良く伸びていた。
 大晦日は、忘年フェスでも顔を合わせたはずの面子と集まったのだが、誰かが「今夜こそが、今年最後の忘年会だ」と言い出したおかげで、更に人が集まり、カラオケ店と居酒屋を繰り返しはしごするハメになった。
 酒でガバガバの胃に年越しそばも無理矢理流し込み、お神酒目当てに初詣もした。
 もう帰りたいという一英の願いは聞き入れられず、その後二時間以上かけての絶叫ボーリング大会までこなした。
 それなのに最後にもう一度、カラオケからの居酒屋リロードを強行され、明け方まで身を酷使した一晩にグロッキー度も半端ないものとなる。
「三十代も目前になると、完徹で遊びほうけることに体力の限界を感じるわ」
 一英があくびとともにそう言った背後で、正義が突然「ごめんね」と言う。
 振り向いた一英を、階段に座ったままの正義は背で受け止める。
「堀田金属の事故の真犯人、俺なんだ」
「は?」
 予想もしなかった言葉に、一英が困惑した笑いで聞き返す。
 だが正義は、その日のことを思い出すように視線を虚空へと走らせた。

 ◇

 あの日。
 一英が堀田金属から帰ったあと、正義は工場前の道で公彦とキャッチボールをしていた。工場を盗み見していたところを公彦に見つかり、公彦のほうから誘ってきたキャッチボールだったと正義は言う。
 のちの公彦が言うにはこの時、正義を見た瞬間アリバイを作ることを思い出したので誘ったということだった。だがそれを差し引いても、公彦はとても気さくで、初対面だというのに正義はすぐに彼と打ち解けたという。
「あのころ俺、力はあってもノーコンでさ。俺の投げたボールが工場の壁に当たっちゃって、中でデカイ音がしたんだ」
 公彦と二人で工場の中を覗くと、一英の作った仕掛けが倒れていた。
「なんだこれ、どうなってたんだ?」
 慌てて仕掛けを直そうするもできず、困り果てる公彦に、
「大丈夫、俺、見てたからわかる!」
とあの日の正義は自分の胸を叩いた。
 その頃は毎日のように一英を尾行していたから、一英のすること成すこと、すべて見ているという自負があった。あの日も堀田金属まで一英を追いかけ、公彦と二人で仕掛けを施す様子くらい工場の窓から盗み見ていたのだ。
 なにをどう仕掛けたかまで細かく覚えていた正義は、それを見事再現し、公彦をすげぇと唸らせた。
 だが鼻の高い思いをした馬鹿は、本当に必要なものを見過ごす。あんなに几帳面に仕掛けを直したというのに、下着が一枚、旋盤の上に落ちていたことにはまったく気づかなかったのだ。
「公彦さんは優しいんですよ」
 正義は、旋盤事故を知った瞬間、気を失いそうなほど目の前が真っ暗になったことを思い出す。
 悪いのはどう考えても自分だった。
 あんなふうに出しゃばりさえしなければ、公彦は仕掛け自体を諦め、すべてを撤去していたかもしれない。片づける最中に、旋盤に落ちた下着にも気づいたことだろう。いやそれ以前に、自分が工場を覗いてさえいなければ、キャッチボールをすることも、そのボールが壁に当たるようなこともなかったのだ。
 どうしていいか解らないまま、一英の後をつけ公彦の入院先を知り、それからは毎日病室に謝りに行った。
 だが公彦はいつも明るく「いいんだ」と繰り返し、正義はいつも泣いて帰る。
 親には怖くて言えなかった。
 とんでもないことをしたと解っていたから。
 子供は工場に入ってはいけないのだと日頃からきつく言われていたのは、なにも一英だけじゃない。
 しかし隠し続けることにも罪を感じ、正義はある日、親に白状すると公彦に申し出た。すると公彦は今までになく厳しく、首を横に振った。
「やめてくれ。俺はもうこれ以上、関係する人を増やしたくないんだ。誰が悪いかって言ったら、間違いなく俺が一番悪い。お前は毎日こうやって全身全霊で悔いて、謝ってくれてるじゃないか。それでもういいんだよ。俺はこれ以上、お前からは何もいらない」
 今思えば、子供二人が事故の原因になってしまったことは、公彦にも重責だっただろうと正義は眉をひそめた。

 ◇

 黙って聞いていた一英は、なぜそんなことを今頃言うんだと溜め息をついた。
「ごめん。なんか、タイミングがなくて」
「もっと早く言えば良かったろ」
「うん。ごめん」
 自らの腕を差し出す覚悟で、正義が旋盤に臨んだあの時。正義は誰かの心を代弁したのではなかった。そう知った一英が、険しい顔で線路を見下ろす。
 その横顔は、そんな辛いことを長い間ずっと持っていたなんて、あんたは馬鹿だと言いたげに見えた。同じ自責を経験した者同士だからこそ、その痛みが手に取るように解る。まぁしょうがねぇよと一英が呟いた。
 そこへ、二人のスマホがそれぞれにメールを受信する。唸るバイブレーションとやかましい着信音が、陸橋の空に鳴った。互いに自分に来たメールを確認したあと、二人は揃って笑いだす。
 それはハワイから二人同時に送られたもので、
『グッモーニン、シーンコーイワー! 働き者の俺ぁ、これから年越しパーティの買い出しだぜ、ベイビー! そんじゃま、よいお年をな!』
という実に時差のある内容だった。スマホをポケットにしまった一英が、タイミングの読めない人がもう一人いたと笑う。
 いや逆に、今ものすごくタイミングが良かったでしょと正義が笑うと、今度はピロリンッという音が途切れることなく鳴り始めた。あまりの連続ぶりに一英が驚く。正義がスマホを耳に当てれば、なんだ電話かよという呟きが漏れた。
「もしもし? はいはい。うん、あけおめー。――え? 牛乳? いや、自分で行けるでしょ? そりゃ起きてるけどさぁ、俺、行けないよ。これから初日の出見るんだから。――今? 犬吠岬」
 聞くとはなしに聞いていた一英が吹き出すが、正義は白々しさのかけらもなく続ける。
「まーたそんなこと言う。好きです、好きですよ、だーいすき。でもそれとこれとは話が別なのね」
 正義は問われた数だけ「好き」と返しながら、こんなたった二つの音の繋がりに何をそんなに怯えていたのだろうと思う。
 好きと言えなくなったのは、あなたを嫌いになったわけではなくて。
 言えなくなるほどあなたを思っていただけだと、明かす予定もない気づきが頬を緩ませる。
 甘えてなじる母の声がどれだけ耳を撫でても、正義の胸が騒ぐことはなかった。母のざれごとを右から左に聞き流し、天高くで刻々と変化する清々しい蒼のグラデーションを見上げる。
 そこにあるのは、一筋の塗り違いもない完璧な色使いだった。緻密に色を変えるそれはまさに神業で、この手が覚えた吹きつけ技も刷毛さばきも到底及ばぬ美しさを見せつける。
 なんて穏やかに広がっていくのだろう。今のこの色合いが好きだと思ったのに、次の瞬間にはまた違う色味となり、それもまた好ましい。
 正義は朱色に燃えつく東の空を見つめ、いまだ姿を見せない女神に白旗を振る。
 ねぇ母さん。
 俺は負けることにしたよ。
 俺にできることはもうないのだと認めます。
 だって、あなたが求めるものに俺はなれないんだから。
 あなたが本当に探してた幻影は、もうその手に戻してあげたでしょ。
 だから俺はもう、あんな約束、自分勝手に破ることにしたよ。
 そのほうがあなたはきっと救われる。自らその戸を開けるはず。
 今なら確信できるんだ。
 俺が守ってやらなくても、きっとあなたは生きている。
 明日も、そして明後日も。
「……あのねぇ、母さん。ずっと前から言いたかったんだけどね、甘える相手、間違ってるよ。もっと他にいるでしょ、甘えたい人。その人と初詣でも行ったらどう? ――だからダーメ。俺だってね、ロマンチックに初日の出見る相手くらいいるんだよ。母さんにばっか構ってらんないの。じゃあね」
 スマホを切り立ち上がった正義の隣に、歩み寄ってきた一英が並ぶ。東を一直線に見つめる一英の瞳には、陽光がきらりと反射していた。
 今年初めての日が赤々と空を滲ませ、街並みを焼きながらゆっくりと顔を出す。
 毎日繰るはずのその光景は、初日の出というだけでド派手なめでたさを付加するが、事実、なんのてらいもないだけに、ただひたすらに神々しい。見る間に生まれ出る新しい日は、自然と今年一年の願いをかける気にさせた。
 ふと、その神聖な時間を無言で共有していることに気づき、正義がおどけた口を開く。
「わー、めっちゃロマンチック。かわいい女の子と見たーい」
 そんなかりそめのロマンチックなら掻き消さんとばかりに、橋の下を走る総武線が耳をつんざくような警笛を一発残していく。
 だが初日の出は、下界の横やりも照れ隠しも完全無視で燦然と輝き、年に一度の役割を終え誇らしく天へと昇っていく。
 まばゆくなる光に目をシカシカさせた一英が「帰るか」と、もう何度目かのあくびをした。歩道に停めていた自転車を持ち上げる一英に、正義がまったく眠気の感じられないキラピカなスマイルを向ける。
「ねぇカズくん。どうせ今日の夕方また会うんだから、このまま一緒にいようよ」
「馬鹿なの? 寝ないと死んじゃうだろ?」
「でも俺ったら犬吠岬にいるわけですから、今帰るわけには」
「知らねぇよ。漫画喫茶にでも行け」
 一英は自転車をガードレール越しに車道へ降ろすと、そのまままたがり、スタートダッシュをかまして走り出す。慌ててガードレールを飛び越え荷台にかじりついた正義が、跳び箱でも飛ぶみたいにひらりと二ケツした。
 かせを失ったその左手がスカイツリーのほうを指さし、良いことでも思いついたみたいに喜ぶ。
「じゃあ、あったかいし寝れるし風呂もあるし、12時のシンデレラ行きましょう」
「嫌です。俺んちだって、あったかいし寝れるし風呂あるから、帰ります」
 拒否の価値すらない提案に、一英は競技場の先に見えるラブホテルを一瞥もしないでペダルを漕ぐ。
 ぶーたれる正義のポケットから、突然いつも通りの三倍速な着信音が響き渡った。また曲を変えたことに一英が気づくが、今度のはそもそもの原曲テンポが速すぎて何が何だか解らねぇしと鬱陶しがる。
 眼下に蔵前橋通りが見えてきたあたりで、荷台の正義は電話口の友人に吹き出して笑った。
「新年フェス? また幹事やれっての?」
「オイ誰だよ、そんな馬鹿言ってんの! 絶対やんねぇからな!」
 呆れて首を振った一英がぐんぐん漕ぎ始め、急な坂に入った自転車は速度を増し、ブレーキもかけずに交差点を一直線に目指していく。バイク並みに新年の風を切る爽快さに、正義がカウボーイのような奇声を上げた。
 空というものが、見てぬ間にも色を変えることくらい、誰だって知っている。
 だが誰もがそのことを忘れてしまう。
 そしてふと見上げた時、まったく違う色に触れ、思うより速いそのうつろいを知るのだ。
 早朝のマンションにこだまする二人の笑い声は、まばゆい光の中、誰よりも早くこの街を駆け抜けていく。






 −終−





 
前へ←
最後までお読みいただきありがとうございました


オマケ雑談その2
(ジャスティー編完結後)


HOME

inserted by FC2 system