>NOVEL>葛飾、最後のピース

第21話
新小岩公園、思い出のキャッチボール
 

 翌日、日曜の正午前、一英は実家のベッドで目を覚ました。瑠奈には土曜のうちに横浜へ帰るなんて言ったのに、昨夜は美洋から「渾身のパクチー料理を振る舞うから泊まっていきなさい」と半ば脅され、自宅には帰れずじまいとなっていた。
 そろそろ横浜に帰ろうと身支度をしリビングへ行くと、戦没者追悼式で黙祷する人々の姿がテレビに映し出されていた。キッチンでは美洋が一人、目玉焼きを作っていて、裕貴はと聞くと病院だと答える。
 姉の用意してくれた昼食を一緒に食べながら、一英は何度も「美味しい」を強要された昨夜の夕飯を思い出す。すると美洋が番組を高校野球に変え、麦茶をすすりながら言った。
「母さんが今晩、あんたの好きな唐揚げ作るって張り切ってるよ。夕飯食べて帰るでしょ?」
「いいのに」
「遠慮しちゃって。食べてあげなさいよぉ」
 美洋は悪気なく微笑むが、もしかしたら母にも「美味しい」をサービスしなきゃならないのかと一英は苦笑いした。
 夜まで新小岩にいる用事もないしと一英が言うと、美洋は「暇なら、久々にこっちの友達にでも会ってみたら?」と言う。一英は茄子の煮浸しをつまみながら、キャッチャーミットで気持ち良くスパンと鳴ったストライクに目をやった。
(今さら会えるような友達なんかいないよ……)
 実家を出て一人暮らしを始めた時から、もう新小岩には帰らないと決めていたのだ、当然こっちの友達とも無理に疎遠になった。そうでもしないと、事あるごとにこの地を踏まなければならない気がしていたからだ。もうずっと会っていない江田の顔が浮かんだ。
 無言で食べ終えた一英が箸を置き、深い溜め息をする。
「俺、こっちにいるとやっぱり嫌なこと思い出す。それがこの一週間で改めて解ったよ」
 楽しそうに試合を見ていた美洋が、そう……と心配そうに眉根を寄せる。
「やっぱり無理させてたんじゃないの? 配達なんかして、本当に大丈夫だったの?」
「大丈夫だよ」
 本当は大丈夫だったとは言い切れなかったが、それでもなんとか無事に配達は終わったのだ。配達を手伝うと言い出したのは自分だし、それに終わったことを言っても仕方がない。
 一英は本屋にでも行って時間潰してくると言うと、自転車借りるよと席を立った。
 家族兼用のママチャリに跨り駅前の本屋へ向かう一英は、人々をウェルダンにする気満々な炎天下、たつみ橋交差点で赤信号に止まる。暑さにだれ、ふと肩の力を抜いた瞬間、背後からかけられた大声に心臓が飛び出さんばかりに跳ね上がった。
「おそよーございます!」
 そのハイトーンと言葉のチョイスで正体が解るようになってしまった自分に嫌気が差しながら、一英はじっとりとした目を向ける。
「なんでいるんだよ」
 一英は威嚇する犬のように鼻筋にしわを寄せたが、ジャスティーは天から攻めてくる太陽以上にぺっかりとした笑みをもってふんぞり返っている。その、神経を逆撫でするようなご機嫌ぶりを無視し、一英は青に変わった信号に誰よりも早く自転車を漕ぎ出した。
「あっれあれ? 今日は休みですか!」
「日曜だろうが」
 初めの数メートルこそ自転車に伴走してきたジャスティーだったが、スピードを上げるとすぐ、無遠慮な勢いで荷台に飛び乗ってきた。そしてそこに立ち上がり、二人羽織のようにして後ろからハンドルを握ってくる。
「なにしやがんだ、あっぶねーだろが!」
「どうせ暇なら、キャッチボールしましょう! 新小岩公園で!」
「勝手に決めんな! 俺にだってやることくらい……」
 一英が駅前へ向けて左にハンドルを切るが、ジャスティーはその力を合気道のごとくいなし、ふらふらする自転車を器用に操りハンドルを右へと回す。その無謀運転に逆らったら二人して派手にこける気がして、早々に観念した一英がブレーキを外して従った。
 ゆっくり大きく円を描いて右へと向きを変えた自転車は、蔵前橋通りを平井方面へと進んでいく。
「……キャッチボールって。子供かよ……」
 心底嫌そうな顔をした一英の頭上で、ジャスティーがむふむふと笑う。
 すると突然、なんだか効き覚えがあるものの尋常でなく高速な曲が響き渡り、その大音量に耳元を直撃された一英がワッと驚く。
 それはロッキーのテーマ曲だとすぐに解ったが、無意味な三倍速仕様が、往年の名作をすっかり台無しにしていた。立腹必死の着メロに、感動も何もあったもんじゃないと一英がげんなりする。
「はい、もしもしー?」
 通話しながら片手で二人羽織運転を続けるジャスティーの声が、頭上で楽しげに笑う。
(今この隙に振り落として逃げてもいいが……どうせすぐに見つかって捕まるんだろうな)
 区内ならどこでもお任せ、まさに神出鬼没、車にだって徒歩で追いつくという奇術をやってのけるジャスティーからは、どうあがいても逃げられないような気がした。区外に出ようとしても、きっと区境あたりで目の前に立ちはだかってくるのだろう。
 一英は真上から突き刺す太陽にも萎え、ジャスティーから逃れることを溜め息ついて諦めると、走ったままの自転車からハンドルを放して飛び降りる。
 少なからずキャッチボールという誘いに気の向いてしまった彼が、後ろから荷台を押して走ると、通話を終えたジャスティーは歓声を上げサドルに移動した。一英は行き先を明け渡し、空いた荷台へと飛び乗る。

 ◇

 新小岩公園に着くと懐かしい芝の香りがした。自転車を駐輪場に入れる猫背を置いて、一英は野球グラウンドに小走りする。生い茂る木々が開けて現れたグラウンドには、昔と同じ景色が、そっくりそのまま広がっていた。
 二面あるグラウンドの向こうで、横一列に立ち並ぶ桜並木の上を総武線が走って見えるが、車体が一英の知る最後の記憶よりいくぶん葉桜に隠れているのは、それだけ時が経ったという証しなのだろう。
 グラウンドに踏み入れば、足元からは嗅ぎ慣れた、そして今も変らぬ土の香りが立ち昇ってくる。忘れていた匂いに深呼吸し、一英は目を細めた。
 後ろから走ってきたジャスティーが、ヨレヨレワンショルダーからグローブと白球を差し出してくる。
「あんた、キャッチボールできんの?」
「できます、四年生から少年野球やってましたし」
「うっそ! 俺も小四からだぜ。チームどこ?」
 はめたグローブから、こなれた皮の匂いが一英の鼻腔を刺激する。それもまた懐かしい香りであった。ジャスティーはワンショルダーをその場に置くと、同じく古臭いグローブをはめた右手を一英に向け、投球を催促した。二人は軽く投げあいながら、徐々に後ろへ下がり距離を延ばす。
「久々ですか?」
「久々だね」
「じゃあ僕が有利だ、今でも毎週やってますから!」
「毎週って! 部活かよ! よく付き合ってくれるやつがいるな」
「あぁ僕ね、誰とでもやるんですよ。知らない人でも声かけると意外とやってくれたり。さすがに毎週付き合ってくれる人なんていませんって」
 ジャスティーは言葉通り安定した投球を見せ、体のなまっている一英よりもずっと滑らかな動きをしていた。対抗心を刺激された一英が、うずうずしてきた肩を抑えられなくなり強めに投げ込むと、少し飛び上がったジャスティーのグローブから心地よい捕球音が上がる。
 そこへ、聞き慣れない男の声がどこからか届いてきた。
「ジャスティーくーん! また撮らせてくれる〜?」
 遠くから聞こえてきた無駄にうるさいダミ声を振り向くと、本格的なカメラを手にした麦藁帽子の男がグラウンドに向かってくるところだった。
「……誰あれ」
「あ、ジャスティーくんのお友達かな? どうもはじめまして、葛飾のお荷物、趣味人でーす」
 軽薄そうな笑顔で駆け寄ってきた男は四十代間近といった年塩梅だったが、それにそぐわず黄色いカエルが腹に描かれたTシャツを着ている。挨拶もそこそこに勝手に撮り始めたダミ声男を、ジャスティーが指す。
「定期的に僕を撮りに来る人なんです、お気になさらず」
「すっげ気になる」
「葛飾戦隊のブラウンレンジャーです」
「またそれかよ」
 右に左に動き回りながら浴びせられるシャッター音から離れ、二人はキャッチボールを再開する。不審なカメラマンが気になって仕方ない様子の一英にジャスティーが続けた。
「その人、ナントカっていうローカルフリーペーパー作ってるオッサンなんですよ。ねぇ永原さん、なんてタイトルでしたっけ、あの冊子」
「『グッジョブ葛飾、俺とお前は死ぬまで一緒、お前が俺の相棒だ! 目指せ二十二世紀、こんな下町どんな感じ?』だよ。いい加減覚えてよ。会うたび会うたび聞かないでよ」
「おあーっ残念、また今回も右から左に抜けていきましたー」
 長すぎる冊子名にジャスティーがもだえ笑う。一英は永原の人となりを的確に表しているだろうタイトルに違いないと思いながら、ジャスティーに球を投げ返す。
 永原は生きるのに疲れたような目をしているくせに、常にダミ声を下品に張り上げ、カラ元気で話す男だった。
「今日はその冊子の取材……なんすか?」
 控えめに尋ねた一英に永原が麦藁帽を押し上げ、細い目を一層細くして笑う。
「いやー、ジャスティーくんの写真は過去に掲載済みだし、今日はあくまでも趣味だねー! ジャスティーくんて被写体として面白いからねー、息抜きしたいときに撮りたくなるんだ!」
「ああ……いつでも一人ファッションショーを開催しているような男ですもんね」
 被写体として面白いという言葉には妙に納得した一英が、飛んできた球を取りながら、いい加減見慣れてしまっていたジャスティーのスカート姿を改めて確認する。
 よく見れば今日の出で立ちは、初めからキャッチボールする気満々だったのがうかがえるベースボールキャップと、赤い袖のラグランTシャツにスニーカー、そしてスカートはえんじ色の膝上丈というスタイルであった。
「ぶっ、膝上!」
 丈の短さに今更ぎょっとした一英は、提灯ブルマに見えなくもない、裾のくしゅくしゅっとしたデザインにもめまいを覚えた。改めて考えれば、スカートから男の生足が伸びているというのがもう変態すぎて、膝より短いものを履くのならせめてレギンスを履けと一英が心中で叫ぶ。
 自分がこんなのと行動を共にしていることを、全否定する以外に選択肢がなかった。
「格好だけじゃなく、あのクソふざけたキャラクターも撮影のためだとしたら、非常に納得できるんですけどね」
「格好もキャラクターもあなたのためですが、何かー!」
「黙れ、不審者!」
 鋭い言葉とともに、ジャスティーの右手めがけ素早く投球する。こいつの周囲から浮いたキャラクターは非日常を売りつけるアミューズメントパーク向きだと思いながら、返ってきた球を今度はその顔めがけ投げつけるが、ジャスティーは怯えるふうもなく笑顔で受け取って見せた。
 ジャスティーの一挙手一投足を余すところなく撮り続けていた永原が、顔を上げる。
「ねぇ、ジャスティーくん。もしかして、この彼がジャスティーくん愛しのヒーロー?」
「そうだよ」
 伸びやかに返球しながらジャスティーが答えると、再びカメラを構えた永原はレンズ越しに一英を見ながら笑った。
「ぽいねー! あれだよね、必殺技が痴漢撃退なんだよね!」
「痴漢撃退……?」
 先日の絵梨香と似たリアクションを取られ、絶対こいつが妙な噂を流してると確信した一英は、白球を握りしめながらジャスティーをじろりと睨む。するとジャスティーは、無実を訴えるように肩をすくめた。
「ヒーローさんだって覚えてるでしょう? 小学生の頃の武勇伝。ほら、こないだ通りかかった痴漢公園で、戦ったじゃないですか」
「な……」
 思わぬ言葉に、一英は二重が奥二重に見えるほど、厳しく目を見開いた。だがジャスティーは確実に、先日通りかかったあの見覚えのある公園を指していた。
 永原が、言葉に詰まった一英の疑念とかぶるように、大きな独り言を言う。
「そうか、やっと話せた人ってこの人かぁー、憧れのヒーローと話せたんだー、よかったねー。涙ぐましい努力だねー。新小岩で僕と握手だーねー!」
 永原の事情を知ったような口ぶりも気になる一英だったが、ジャスティーの口からなぜあの『武勇伝』のことが出たのか、というほうがもっと気になる。
 なぜならあの『武勇伝』は一英自身、公彦以外の誰にも言ってはおらず、公彦もああ見えて口が固い。家族だって知らないことをジャスティーなんかが知っているのは、当然おかしいものなのだった。
 投球体勢に入りながら後ろに下がっていくジャスティーを、一英が追う。
「おい、なんであんたがそれを知ってんだ……?」
「僕が知ってたらおかしいですかぁ?」
 風を切って飛んできた球を一英のグローブがパンと受ける。今にも食ってかかりそうな形相の一英とは対照的に、ジャスティーは穏やかすぎるほどの笑みを口元に広げる。
「僕、知ってんですよ。小学四年生のあなたが、あの公園で痴漢に襲われてた子を助けたことを」
「だからなんで知ってんだって聞いてんだよ!」
 なんでも見透かすような態度が気に入らず、一英が本気で強く投げつける。だがやはり、ジャスティーは軽々と球を捕えた。
「僕もね、あの場にいたんですよ。だから知ってるの。とてもじゃないけど小学生とは思えないくらい、爽やかで機転の利いた、イカした救い方でしたよね」
「……見てたのか……? あれを……」
「はい。見てました」
 手の中で球を弄んだジャスティーが、力を溜めるようにゆっくりと振りかぶる。
「なにを隠そう、僕はあの日から、あなたのストーカーなんです!」
 年齢にしては高めの、少年のような声がグラウンドにこだました。
 高く揚げた一英の左手で、今までにないほど痺れる痛みと破裂するような音が鳴る。受け取った衝撃から、今まで手を抜いて投げていたのが解った。
 一英はグローブ越しでも激痛の走った左手を抜き取り、細身の外見からは意外に思えるほど重い球を放るジャスティーをしかめっ面で睨む。
「ストーカー……?」
「あの時のあなたは輝いていた。かっこよかった。あなたこそ、ほんとのヒーローなんですよ」
「ヒーローヒーローって、そういうことだったのかよ」
 一英を見つめるジャスティーの目は、いつになく思いつめた色を湛えていた。その左手首が、常につけているブレスレットが絡みつくのを嫌がるように、自分の腹部に擦りつけられる。
 睨むのとは違う、悲しみを帯びた目を向けていたジャスティーだったが、一英と視線が合うとすぐにべえっと舌を出し、
「僕に捕れない球投げたら、ヒーローって呼ぶのやめてあげますよ」
と笑った。
 どこか物陰からあの一部始終を見ていたらしいジャスティーを、一英は騙されたような気持ちで睨みつける。
(あの時、あの公園に他の誰かがいたなんて、思ってもみなかった……)
 過去の、それも自分としては思い出すのもつらい秘密が軽々しく晒されたようで、一英は躍起になって全力投球をした。飛距離に合わない詰まった間合いだというのに、ジャスティーは一歩も後ろに引こうとせず、瞬発的に捕えられた球が、すぐさま重い速球となって返ってくる。一英も引こうとはしなかった。
 しばし無言で左投げのジャスティーと向き合ううち、一英は鏡を見ているような不思議な感覚に陥っていく。
 だいぶ勘を取り戻した速球がジャスティーの右手で打ち鳴ると、その返球は予想外の方向へと定められ、グローブではなく一英の足元めがけてやってきた。
「いってぇ!」
 してやったりと、ジャスティーがにた笑う。腿に球を受けた一英はカッとなり、仕返しにジャスティーの腹部を狙って投げつけた。
 ぶつけたほうが勝ちとばかりにドッジボールじみてきたキャッチボールは、互いに追いかけ回して投げ合ううち、グラウンドから飛び出していく。
 すると、グラウンド脇の舗道をジョギングしていた男が、素っ頓狂な声を上げた。





 
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