>NOVEL>葛飾、最後のピース

第23話
ビバ、ノンノ!
 

 新小岩公園からほど近い西新小岩の銭湯に着くや、我先にとずぶ濡れの服を脱ぎ、五人の男たちは大浴場へ入った。カランから噴き出る熱い湯をケロリン桶で受け、苔くさい体に流していた一英は、背後で聞こえたシャッター音にギョッとして振り返る。
「せ、銭湯でも撮るんすか?」
「撮るよ、ロケーション最高じゃない!」
 腰にタオル一枚すら巻いていない素っ裸の永原が、カメラ片手に白い歯を見せ親指を立てる。同じく素っ裸の江田とジャスティーが「きゃー! やめてー! 局部は撮らないでー!」と言いながら桶で前を隠してピースサインすると、一英に美しくない尻を向けた永原はそれを余すことなく激写した。
 その迷惑行為に一英が辺りを見回す。だがぽつぽつと散らばっていた数人の客たちはまたしてもジャスティーの知り合いらしく、永原も挨拶ついでにじいさんの裸体を撮っていた。
 よく店主に怒られないなと思いながら、一英は間抜けな撮影会を鏡越しに生ぬるく見守り、日に焼けた自身の顔を眺め首元を洗い始める。
 右隣にいた瞬平が濃いめの顔に石鹸を泡立て、まったく見えていない目でこちらを見て言った。
「こどもの日には毎年、友達みんなで入ったよな」
「うん、懐かしい。菖蒲が浮かんでんだよね」
 一英がふふっと笑う。天井を見上げると、むわっとした蒸気とともに石鹸のいい香りが充満していた。久々に入った大浴場は、公彦と通った頃の強烈な郷愁を湧き起こさせてくる。思えばあの頃が一番楽しかった。
 初めて来たこの銭湯は、洗い場全体が茶と緑でまとめられた昭和レトロなタイル張りで、その上にある銭湯ならではの壁画は、ユニークなことに竹林の風景であった。壁際に数台並んだカーテン付きのシャワー個室も珍しい。
 そのカーテンをシャッと開けて出てきた寿夫が、一英の左隣にやってきて腰を下ろす。
「カズ。久しぶり」
 再会から数時間経っているというのに、寿夫は改めて一英をしげしげと見つめてきた。その視線に親戚のおじさんが見せる「大きくなったね」的なものを感じながら、一英は泡の手を止める。
「トシくん……。シュンちゃんも、ゴメンな。俺……」
 その言葉に手を振り、寿夫が遮る。
「いいのいいの。みなまで言うな。みんな生きてる、みんな色々ある。だからそれでいいの」
「でも俺、一方的に連絡拒否ってたし……怒ったろ?」
「いやぁ、怒んないよ。そりゃちょっとは寂しかったけどさぁ、どうせまたこっち来た時には遊んでくれんじゃねぇかなって思ってた。で、実際そうだったから、俺嬉しい」
 小柄で童顔なのに、寿夫は昔と変わらずオッサンじみて落ち着いている。顔をザバザバと洗い流しながら、瞬平も息継ぎついでに言った。
「カズ、前から新小岩出たいって言ってたし、俺らその理由も知ってたしね」
 幼なじみの言葉に不覚にも胸が温かくなる。あまりにさっぱりとした態度の向こうには、きっと本当は腹を立てたり、最低なやつだと罵ったりしたこともあったのだろうと思う。
 言葉を失う一英に、顔を上げた瞬平が「トシくんが一番待ってたんだぜ、カズのこと」と笑いかける。頷いた寿夫も、小さな口から白い歯を見せた。
「俺さ、またカズとやりたくて待ってたんだ」
「やりたい……? なにを?」
 一英が何か約束事でもあっただろうかと眉を寄せると、寿夫は「俺、待つの得意だから」と言い、両手でジェスチャーをする。
 その手が示した所作に、昔流行った格闘対戦型アーケードゲームのプレイを思い出し、一英は足しげくゲーセンに通った懐かしさから笑い声を上げた。当時、寿夫が好んで使っていたキャラは、待ち伏せの得意なアメリカ軍人だった。
「嘘、まだあのゲームできんの?」
「できるできる。まだあるもん、あそこのゲーセンに」
「マジで!」
 笑っている二人の後ろでは、泡を洗い流しているジャスティーの頭に、チョロチョロとシャンプーを追加している悪戯な江田の姿があった。そんな様子を湯気に悪戦苦闘しながら永原が追い、一枚撮るごとにレンズを拭きまくっている姿を瞬平が笑う。
 ふと一英が、寿夫に声を潜めた。
「トシくんあのさ、みんなどうしてあいつと知り合いなの? いつから?」
「ジャスティー? いつだったかなぁ、何年か前だよ。カズが新小岩出てった頃だったかも。確か初めは、シュンちゃんとこの店に客で来たんだよ」
 寿夫が「ね?」と続きを促すと、聞こえていた瞬平がそうそうと頷いた。
「スカートなんか履いて面白ぇ客だなと思ってさ。したら話聞いてるうちに、裕貴と知り合いだって解って。それ俺の同級生の弟だぜ! って」
「へぇ……」
「したらカズのストーカーだって言うからさ、そこでとりあえずメアド交換したんだわ」
 頭を洗い始めた瞬平はそのまま俯いてしまう。気づけば寿夫は隣から消え、大きな湯船に顔だけを浮かばせていた。
 ストーカーねぇと腑に落ちない表情で呟いた一英は、そっと鏡越しにジャスティーを見る。
 あんな意味不明なヒーローオタクに、小学生の頃からストークされていた自覚などない。だいたいスカート男なんて目を引くもの、つけられていたらすぐに解りそうなものだ。
 一英は頭を振って体を流すと、江田の悪戯に合うのを懸念し、洗髪のためシャワーへと向かっていった。

 ◇

 久々に長湯して風呂を上ると、先に上がっていたジャスティーが一人、脱衣所で一英の携帯をいじる姿があった。腰にバスタオルを巻いただけのジャスティーは、スカートを履いている時とほぼシルエットが変わらない。それと同じ姿の一英が歩み寄り、彼の手元を覗き込む。
「どうなった? ほんとにそんなんで直るのかよ」
「やらないよりマシです」
 ジャスティーはそう言って、携帯電話の内部を乾かすため、向きを固定して風を出し続けていたドライヤーを切る。
 風呂に入る前、ジャスティーに奪われた携帯はフタや電池を外され、本体を水道水で洗われた。ためらいのないその行為にはハラハラしたが、いま完全に乾いたらしい部品は次々とあるべき場所に収められていく。
「なんで俺の携帯だけ、こんな目に合わなきゃなんないんだか」
「あなたが僕に預けないで遊び始めるからですよ」
 他の四人は千本ノックが始まる際、携帯をジャスティーのヨレヨレワンショルダーに入れていたらしく、運よく水没の難を逃れていた。いつ預けたのかも、いつ回収したのかも一英の記憶にはなかったが、ヨレヨレワンショルダーが噴水の外に置かれていた光景だけは思い出せる。
 脱衣所の中央あたりにあるロッカーで何やら瞬平と話していた江田が、髪をかき回していたタオルを止め、驚いた声を上げた。
「え! 今日帰っちゃうの!」
 牛乳瓶のフタを開けた瞬平が、その驚きにダメ押しする。
「らしいよ。カズの父ちゃんが入院して、配達手伝うために来てただけなんだって」
「なんだよ、盆休みで遊びに来てんだと思ってた! えー、帰っちゃうのー! カズ、嘘でしょー!」
 低いロッカーから上半身だけを覗かせ、江田が一英に歩み寄る。一英が携帯を心配そうに見つめたまま「盆休みなんか潰れちゃったよ。明日からまた仕事」と言うと、江田はいいともの観客ばりに「えー!」と不服を訴えた。
 だが、うちわで涼んでいた寿夫が「いま、横浜に住んでんだって」と耳打ちすると、江田の顔にはすぐにクシャッとした笑みが広がる。
「あっ、よかった、案外近い! じゃあさ、また遊ぼ! ね、遊ぼ!」
「裸で抱きつくの、やめて」
 半裸でもめる二人の目の前に、ドライバー片手のジャスティーが携帯を差し出す。
「これで大丈夫と思いますよ。明日の昼ごろ電源入れてみたらどうですかね。今日はやめたほうがいいかと」
 一英は見た目は完璧に復活した携帯を受け取りつつ、ジャスティーに対して言うことになるとは思わなかった礼の言葉を素直に口にする。後ろでは、永原がブリーフ一丁に麦藁帽という、着替える順番を盛大に間違えた格好で、牛乳瓶をあおる瞬平を撮っていた。
「ねぇ永原さん、そろそろ洗濯終わってんじゃないの?」
「あぁ、そうか!」
 江田の言葉にせっせと服を着た永原が、隣接するコインランドリーへと様子を見に行く。永原以外の全員が噴水でずぶ濡れたため、コインランドリーへは入浴前の永原が行き、全員の下着まですべてを洗濯機にぶっこんでくれていたのだ。
「でもあれ、乾燥機別じゃなかったっけ?」
「え、じゃあまだ三十分は裸? うそーん」
「俺、もう一回入ろうかな」
 江田たちがそんなことを話している中、ジャスティーがヨレヨレワンショルダーから一着の上着を取り出す。
「ヒーローさん、良かったらこれ」
 差し出された目にも鮮やかなブルーの服を、一英が不思議がって受け取る。
「あっ!」
 広げてみれば、それはこともあろうに一英自身の私物であった。
 それは中学時代の学校用ジャージで、昔、干している間になくなったはずのものだった。
 上下まるまる一着なくなったというのに、当時は母も自分も風の仕業と思っていた。だが十年以上の時を経た今、真の盗人は陳謝もなく、弾けんばかりの笑顔でピースサインをしている。
 ストーカーという言葉が真実味を増し、一英はジャージのズボンも無言でふんだくった。すかさずジャスティーが、ずっしりと重いビニール袋をロッカーの上に乗せる。
「ごめんなさい、あなたの服だけ洗ってません。四人分で洗濯機いっぱいだったので」
 ビニール袋を恐る恐る開けてみた一英は、本当に入っていたびしょびしょの服に、思わず額をジャスティーの頭に打ちつける。鈍い音とともにジャスティーが頭を抱えて悶絶した。
 二人のやり取りに笑った友人たちはジャージを懐かしがり、もう一回広げてとねだる。今一度広げたジャージを着るべきか悩む一英に、着ちゃえ着ちゃえというコールがかかった。
 しぶる一英だったが、
「池の水に濡れた服、もっかい着るの?」
という瞬平の言葉に折れ、意を決して袖を通す。
 だがやはり中学のジャージ、サイズも合ってなければ常識ある一般人としての風格もどこへやらだ。そんな彼の姿を、永原のカメラを勝手に拝借したジャスティーが連写する。
「こんな格好撮んな!」
「いーねー! カズ、キテルよー!」
 一英の怒声と友人らの掛け声が脱衣所に響き渡り、それをマッサージチェアに座っていたじいさんが「うるせぇぞ!」と一蹴する。
 一英はすみませんと口元を抑え、今更コインランドリーに行くのも馬鹿馬鹿しいよなと溜め息した。
 そして、ジャージの上着は名前の刺繍が目立たないよう裏返しに着て、つんつるてんの裾は個性的なサルエルパンツだと思い込むことにする。最悪だとは思うものの、どうせ新小岩をうろつくだけなら大して気に病む格好でもないだろう。
「じゃあ俺、そろそろ帰るわ」
 壁時計を見上げた一英がそう言うと、腰タオル一丁の友人たちが揃ってサッとこちらを向いた。江田がわざとらしい調子で笑う。
「いやぁ、今日は楽しかったね! そんじゃまた、今度の土曜に!」
「江田っち……」
 引き止めない代わりに次を要求するのは、寿夫も瞬平も同じだった。
「あ、カズ土曜来んの? そんなら俺も空けとく。ゲーセン行こ」
「土曜ね、オッケー。待ってっから!」
 本当に次の土曜日に来ると信じているらしい友人たちが、にこやかに手を振る。だが一英には来週どころか、この先もずっと新小岩を訪れる気などなかった。
 自分はこの街にいてはいけない人間だ、という忘れられない決意が胸に湧く。だからこの街にはもう戻らないと決め、別の場所に移り住んだのだ。どこでもいい、この街でないのならどこでも。そう思ったあの気持ちは今も変わらない。
 久々に幼なじみに会えて楽しかったのは事実だが、そのためにこの街にまた来られるか、またこの街と繋がれるか、というとそんな自信はなかった。
 ――このまま無難な笑顔で立ち去ろう。
 そう思うが、次の一歩が出ない。数年間も音信不通だった自分を温かく迎えてくれた彼らを前に、もう一度、一方的な遮断で立ち去るだけの踏ん切りがつかなかった。
 しばし唇を結んで彼らを見つめていた一英が、ふうと深呼吸する。
「……今回は親父のことがあったから来ただけなんだよ。今後もずっと別の場所で暮らすし、新小岩に遊びに来ることも、もうないと思う」
「そうなの? じゃあ俺らがそっち行こ」
「そういうことじゃないんだよ」
 否定された江田だけでなく、寿夫も瞬平も悲しげに一英を見つめる。
「ごめん。……みんな、今日はありがとう」
 これ以上目を合わせたら辛くなるだけのような気がして、一英は笑顔を一つ浮かべるとすぐに背を向け、振り切るように歩き出す。脱衣所を出ていくその背中にジャスティーの声がかけられた。
「また来週!」
 こっちの気も知らず一人しつこいジャスティーに、もう会わねぇよ、一生さよなら、という思いを口には出さず、一英はそのまま銭湯を後にする。
 重たいビニール袋をカゴに放り入れ、自転車で走り去っていく一英に、コインランドリーから顔を出した永原が「またねー」などと声をかけてきていた。
 すぐ横を通過したトラックの排気ガスに、一英がむせ返る。

 ◇

 その夜、二十三時を回った頃、一英は新小岩駅の蒸し暑いホームにいた。東京方面への快速電車は行ってしまったばかりで、十分ほどの待ち時間を座って過ごそうとベンチに歩み寄る。
「いてて……」
 座ろうと屈んだ体は、はやくもやってきた恐ろしいまでの筋肉痛に激しく痛んだ。父が倒れた日に着てきたこのスーツも、心なしか腕や太ももがパンパンできつく感じる。
 老人じみてやっと座った一英は、ビジネスバッグとビニール袋を隣の椅子に置き、相当なまっていた己の体に溜め息した。
 ビニール袋に入っているのは、母の揚げた唐揚げだった。こんなには食べきれないと言っているのにまったく引かず、冷凍すれば日持ちするからとかなんとか言って、母は二キロはありそうな唐揚げを押し付けてきたのだ。その時の強引な姿を思い出すと、苦笑いが込み上げる。
 夕食でも予想通り、「唐揚げ、おいしいかい?」というただそれだけの質問を何度も浴びせられた。母と姉の酷似ぶりを皆で笑い、父こそ不在だったものの、久々に楽しく過ごした家族団らんだった。
 ふと顔を曇らせ、ポケットをまさぐった一英は、まだ電源を入れることのできない携帯を取り出す。
 昨夜の電話で「明日も電話する」なんて言ってしまったから、瑠奈は今頃、きっと怒っているに違いなかった。拗ねる様子が目に浮かぶ。
 できればすぐにでも弁明したいが、瑠奈の番号すら携帯の中で、公衆電話があってもかけることができなかった。昼間のうちに買い換えなかったことを後悔しながら、明日になったら昼休みにでも携帯ショップへ行こうと決める。
(瑠奈の番号、消えてないといいな)
 携帯を手の中で弄ぶ一英は、アドレス帳が生き残っていることを願った。だがその中に江田たちの番号もあることを思うと、少しのためらいも湧く。
 本当に彼らの電話番号やメールアドレスなんかが入っているのだろうか。勝手に入れられて、一度も確かめないまま携帯は水没した。
 もしかしたらデータは全部消えているかもしれない。そう思う一英が口元を強張らせる。
(……まぁ、消えてるならそれはそれで)
 そのほうがいい。
 思いつめた表情の一英は、ホームに流れたアナウンスにも気づかず、携帯を見つめ続けた。しばらくして滑り込んできた電車の轟音に驚き、やっと顔を上げる。湿った生ぬるい突風が頬をなぶっていく。
 蒸気のような音を立てて開いたドアを一英は重い足取りでくぐり、その様子を遠くから眺める目が、にんまりと笑った。ホームを臨める北口前のビルの屋上で、蕎麦屋の看板を隣にしていたジャスティーが小さく呟く。
「また来週」
 一英に一切気づかれないまま、がたごとと走り去っていく電車を最後まで見送ると、ジャスティーは屋上の鉄柵から身を離し、背伸びがてらに夜空を見上げた。
「さ、俺ももう帰って寝なきゃ。明日は早いぞ!」
 ジャスティーは遠足前の子供のような足取りで、その場から消え去っていく。





 
前へ←   →次へ


HOME

inserted by FC2 system