>NOVEL>葛飾、最後のピース

第26話
その胸に渦巻く怒り
 

 奥戸橋の上から見える夕日は、前を走る車のブレーキランプよりも車内を真っ赤に染め上げる。盛の熊さんを出た一英は、ナビのいないミニバンで新小岩駅行のバスを追走して中川を渡り、土地勘のあるエリアへと帰ってきていた。
 助手席で、惣菜の入ったレジ袋とともに置いていた携帯が着信に震える。信号待ちの最後尾につきながら手に取れば、画面には瑠奈がほんわりと笑っている画像が映し出されていた。一英がしまったと顔をしかめる。
 携帯を水没させてから瑠奈になんの連絡もしていなかったことが、今更ながらに思い出された。怒っているだろうなと下唇を噛む。連絡しなかった一日半の間に、ずいぶんと状況は変わってしまっていた。
 青信号に走り出しても、ハンドルを握る手の中で携帯は長いこと震えた。会社が倒産したことは、どこからか知れる前に自分の口から話して両親を安心させる、と言っていた朔田の言葉が蘇る。
 もし瑠奈が倒産のことを知って電話してきていたらと思うと気が重かったが、一度切れてなおかけ直された着信に、一英は通りがかったコンビニの駐車場に車を入れ、通話ボタンを押した。
 届いた瑠奈の声は思いのほか明るく、一英は開口一番に携帯を水没させたことを詫びる。
「ほんとごめん、電源切ってたのはそういうわけで……」
「そうだったんだ、ぜんぜん出ないから心配したよぉ」
「俺も焦ったよ。瑠奈の番号、どっかにメモしとかなきゃだね」
 瑠奈は笑って、水没の話をしょうがないんだからと許してくれた。
 状況が状況なだけに倒産のことをきちんと話さねばと思うが、一英の喉はやはり言葉に詰まる。婚約したばかりの彼氏が無職になったと知ったら、瑠奈はどう思うのだろう。そんなことが浮かび、つい父の病状の話に持ち込んでしまう。
 無事快方に向かっているなどと話しながら、倒産のことは再就職してから伝えたほうがきっと瑠奈を安心させられるだろうと考えていた。
 ふと瑠奈が溜め息をつく。
「カズくんの地元、やっぱり行ってみたいな」
 無職になったことで恋人を両親に紹介という状態ではなくなってしまった今、家族関連の話題はやめておけばよかったと即座に後悔する。
 一英が「そのうちね」と言葉を濁すと、瑠奈は残念そうに「そのうちね」と繰り返した。悲しげに響く声に一英の胸が痛む。
「ところで瑠奈、帰ってくるのいつだっけ?」
「金曜日の夜だよ。月曜から本社に戻るの。金曜の夜デートする?」
 ふふっと笑った嬉しそうな声に、一英はにこやかな声で「もちろん。楽しみにしてる」と返す。だがその表情には焦りが浮かび上がっていた。
 電話を切ったあと、溜め息交じりに額を撫で上げる。
「金曜って四日後かよ。はやいとこ仕事見つけなきゃ……」
 どう考えても四日では無理だと思いながら、それでも一英は履歴書を買うため車を降りた。
 コンビニの、自動ではないドアを一英が引き開けると、ちょうど店内から出てきた男が図々しくも先にドアをくぐろうとし、二人は危うくぶつかりそうになる。
「失礼」
 条件反射的にそんな言葉が一英の口をつく。だが相手の男はこちらを睨みつけると、責めるような舌打ちをして立ち去っていった。
 他人の開けたドアなのにそこまで傲慢な態度に出られる神経が解らないと、一英は眉間にしわを寄せる。
(……でもこれが新小岩だ)
 腹立たしさを抑え込み、何も気にしていないふりを装い一英は店内に入っていく。ジャスティーの言った「あなたには地元愛が足りない」という言葉が思い浮かんだ。
(こんな街に地元愛なんか抱けるわけがないっつの)
 履歴書を持ってレジへ向かうと、レジの男性店員は挨拶もなく、商品を乱雑に袋に入れ金額だけを口にする。千円札を渡せば、店員は溜め息混じりにそれを受け取り、釣りの小銭を差し出した。
 またも浴びせられる横柄さを不愉快に思いながら、一英が手を伸ばす。すると、嫌がらせなのか潔癖症なのか、釣り銭は彼の手の平から微妙に離れた空中で放たれた。
 渡されるというより落とされたそれをすべて受け取りきれず、数枚の硬貨が床を転がる。
「……」
「したー」
 一英は店員のどうでもいい「ありがとうございました」を聞きながら、大人しく散らばった硬貨を集めて店を出た。苛立ちをなだめながら駐車場に出た瞬間、改造マフラーで暴走する車がコンビニの前を通過していき、その耳障りな轟音に不快感を更にあおられる。
 ミニバンのドアに鍵を挿しながら顔を上げると、真っ赤に燃えた残り火が西の空でくすぶっていた。
 建物の重なる隙間から、公彦と堀田を張り込んだマンションが見える。四階建てといえば当時は高い建物だったのに、今じゃもっと高層のマンションに埋もれてしまっていた。
 あのマンションから見下ろした、古臭い木造アパートが眼鏡の奥に浮かぶ。中学の時に江田が都営住宅へ引っ越して以来、一英はあのアパートを訪れたことはなかった。もしかするとアパート自体が既に潰れ、別の建物になっているのかもしれない。だがそれを確かめに行く気はなかった。
 公彦と目撃した堀田の窃盗現場が、今でも脳裏に焼き付いている。
(地元愛なんか、一生持てなくたって構わねぇよ)
 過去から目を背けるようにうつむいた一英のもとに、突然走ってきた一台の自転車が急停車する。酔っ払った中年男が乗っていた。
「おいこら! てめぇチャイニーズだろ!」
 辺りに充満したアルコール臭に、一英は泡立っていた怒りを瞬時に沸き立たせ、迷わず中年の酔っ払いを睨み上げた。恵たちを相手に、あそこまでべらべらと事故のことを話してしまったせいなのか、胸のあたりがひどく煮え立つのを感じる。
「……なんだと、この野郎」
 どうしてこう、この街には迷惑なやつが多いんだ。
 不毛な苛立ちに満たされた一英は、二メートルほど先に停まっていた男に近寄り、自転車を思い切り蹴りつける。
 情けなさと怒りがとめどなく溢れ出し、健全な意識は働いていなかった。
 酔っ払いが衝撃でよろけ、自転車もろとも倒れそうになる。だが倒れる前に一英はその胸倉をつかみ、すぐ横にあった鉄柵に酔っ払いを叩きつけた。後ろで自転車の倒れる音がする。
「うぜぇから、俺に近寄んな……!」
 腹の底から湧いた低い声を、一英は吐き捨てる。
 気づくと酔っ払いは背中を強か打ちつけ、胸倉をねじり上げてくる手を必死に外そうとうめいていた。その声と光景にハッと我に返る。
 一英は自分のしたことを一瞬で後悔し、驚いたように酔っ払いの胸倉を解放した。慌てて自転車を起こしてやり、酔っ払いにハンドルを握らせる。 酔っ払いは強がって悪態をつきながらも、よろよろと走り去っていった。
 いつの間にか落としていたレジ袋を拾い、逃げるようにミニバンに乗りこんだ一英は、ずれた眼鏡を直し、痛みをこらえるように顔を歪める。もう何年も忘れていたはずの苛立ちがこんなにもたちまち蘇ってしまったことに、めまいがするほど狼狽していた。
 唸りを上げて走り去っていくミニバンを、電柱の陰からジャスティーが見つめる。
 その夜の一英は、夕食もそこそこに部屋にこもると、携帯で一心不乱に採用情報を検索した。多少歪んだ履歴書はレジ袋に入ったまま、ミニテーブルの上に置かれている。
 夜はどんどんと更けていき、なんとか数枚の履歴書を書き上げて、崩れるようにベッドに倒れ込む。眠る間際の意識の中、『葛飾の魅力』というワードで検索をかけてみると、光る検索結果画面に散りばめられていたのは『人情』という文字だった。
 多大な違和を感じ鼻で笑った一英は、回る視界を最後に眠りへと落ちていった。





 
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