>NOVEL>葛飾、最後のピース

第31話
転身
 

 その日の配達を終えた後、一英は夕暮れのJRに乗り、面接の約束をした時刻に充分間に合って横浜に到着した。スーツの上着を正し桜木町へと降り立つ。
 いまや倒産した元勤務先と企業間の接点があった会社とはいえ、一英が面接先のビルに足を踏み入れたのはこれが初めてだった。社内の印象は明るく、通された部屋で幾分緊張する一英の目の前に座った初老の男性は、人当たり良くにこやかに笑む。
「えっと、佐々木瑠奈くんの紹介だよね。すまないね、彼女、まだ研修から戻ってないんだ。会いたかったかな」
「いえ。こちらこそ、こんな遅い時間にすみません。宜しくお願いします」
 一英に寛ぐよう促した男性は履歴書に目を落とすと、最終職歴を確認し今回のことは大変だったねと慰め顔を浮かべた。終始ほがらかに面接してくれた横浜生まれだという男性に、一英は自分がどんなに横浜が好きかという話を何度も差し向ける。
「嬉しいねぇ、そんなに横浜が好き?」
「ええ、横浜の方々は人柄がいいなぁとしみじみ思うんです。横浜という街自体も、僕の生まれた土地にはないオープンな親しみやすさがあって、やっぱり港は懐が広いと感動します。この横浜というフィールドで、生涯誇りに思える仕事をしたいと思っています」
 自分の主張を笑顔で聞き同調してくれた男性に頭を下げ、一英は面接先を後にする。外はすっかり夜になっていた。
 一人、みなとみらいへとやってきた一英は、オレンジ色に浮かび上がる赤レンガ倉庫を背に、面接が無事に終わったことを瑠奈にメールで報告する。通い慣れたこのエリアは暇さえあれば足を運ぶ気に入りの場所で、瑠奈とも毎週のようにデートを重ねるほどだったのに、父が倒れて以来二週間ほど離れただけで、なんだか久々に感じられた。
 携帯を閉じ深々と深呼吸した後、海沿いの柵にもたれ、目の前に広がる夜の港を眺める。黒々とした波にきらめく港の灯りが、潮の匂いを運んできていた。眩しげに細めた目に、この辺りから瑠奈と眺めた、去年の花火大会が浮かび上がる。
 みなとみらいには、横浜に住んでからの思い出が六年分、ぎっしりと詰まっていた。
 面接が上手くいったという手応えを反芻しながら、明日帰ってくる瑠奈のことを想う。すると中華街にある、よく二人で夕飯を食べに行った店のメニューが思い浮かんだ。今後はあの店で、毎日一緒にランチを食べられるのかもしれないと、変に照れくさい気持ちになる。
 研修で少し離れていただけの間に多くの心配をかけてしまったのだから、明日は帰ってきた瑠奈にきちんと感謝を伝えよう。今日の面接で再就職が決まってくれれば、瑠奈も自分もひと安心できるはずだ。
 海に背を向け、一英は勤めていた会社のある方角を見つめた。赤レンガに集まる人々のざわめきが遠くに聞こえる。
 けたたましい音に天を仰ぐと、夜空に遊覧飛行中のヘリコプターが横切っていった。
「始終ハッチャひゃく寝ず……」
 ――本当に狭いのは、お前さんの視野と、度量のほうなんじゃないのかねぇ?
 そう凛が投げつけた謎の言葉が、ふいに頭に浮かぶ。一英は携帯を開き、聞き慣れないその言葉を検索した。
「四十八茶……百鼠……。これのこと?」
 それは江戸時代、華美な色彩を禁じられた人々が発揮した、想像力と創造力の豊かさを物語る言葉であった。茶色と鼠色だけで数多のバリエーションを作り、人生を謳歌する。与えられた環境を受け入れる度量とその中で最善を見出す視野の広さ。どんな状況でも工夫して楽しめることができるはずだと、その言葉は語り継ぐ。
 どきりとした一英は、嫌気とともに画面から目をそらし、閉じた携帯をポケットの奥深くにねじ込む。これ以上画面を見る気はなかった。もし着信に震えても気づかないで済むよう、足早に歩き出す。
 ライトアップされた美しい赤レンガを離れ、日本丸の見える汽車道を桜木町駅へ向かって進んでいく。走り出しそうな速さで歩く一英は、ほとんど自転車など通らない道だと解っていても、何度も背後を気にしていた。
 この街の歩道は新小岩のそれより随分と広く、人が十分に行き交える広さがある。それなのにこんなにも背後が気になるのは、たった十日ほど新小岩にいたせいで戻ってしまった体感だった。
 その自らにしか解らない感覚に苛立つ一英は、大観覧車のイルミネーションが運河でゆらめくのを見ることもなく、コンクリートに打ち寄せる優しげな波の音だけを聞き、一心不乱に歩いていく。噛みしめたままの顎が強張っていく感覚だけが生々しかった。

 ◇

 実家へ帰宅すると、我が目を疑う光景が待っていた。
「おーい兄ちゃん、こっちこっち!」
 玄関を開けようとする頭上から裕貴に手招かれ、一英は手にしていたビジネスバッグとスーツの上着を玄関の中に置き、そのまま外階段を上っていく。屋上に出ると、アウトドア用のテーブルセットにホットプレートや焼肉コンロが並べられ、美洋がせっせと焼きそばを作っていた。その脇で裕貴が安っぽい花火に興じている。
 それは幼い頃、公彦が夕食を食べに来ると必ず目にした、夏の光景だった。花火を振り回す裕貴が幼く見え、美洋の後ろ姿に母の面影が見える。美洋が起こし金をチャンチャン言わせながら一英を振り向き、お帰りと声をかけた。
「姉ちゃん、どうしたのきょうは」
「久々に焼肉でもどうかな〜って」
 呆気にとられる一英に湯気にまみれた美洋がいたずらっぽく笑う。すると一英の背後から外階段を上ってくる足音が聞こえ、いかにも不謹慎そうな含み笑いをともなった男性の声がかけられた。
「よぉ、カズ。元気だったか?」
 振り向くとそこには、風呂上りと思しき濡れ髪の男が立っていた。上気した顔は至って機嫌が良さそうで、タオルを引っかけられた右肩は肘から先がない。一英は跳ね上がった心臓に息をのんだ。
「……公彦……おじさん……」
 驚きにかすれた声をなんとか絞り出すと、公彦はぶはっと笑い、幽霊でも見たような顔すんなよと言った。
「お、じっ……なっ、なんでここに!」
「義兄さんの見舞いだよ〜ん」
 一英の狼狽をものともせず、公彦はヒゲダンス的なステップで美洋の足元にあるクーラーボックスへと近寄る。最後に見た時より確実に年は取ったものの、記憶よりもずいぶん小ざっぱりとした公彦は、取り出した缶ビールを片手で器用に開け、喉を鳴らして飲む。
「あぁビール超うめぇ!」
 浅黒く日焼けした肌、黙ってさえいれば精悍な顔つきは、昔の、腕を失う前のそれとなんら変わりなかった。汚かったひげがなくなり、髪も短くなっている。
 缶ビールを左手に持つ公彦は、眉根を震わせて立ちすくんでいる一英を顎で招く。
「カズも座ろうぜ!」
 椅子にまたがった公彦は勝手に牛肉を焼き始め、うほうほと吠えそうなくらい猿のようにはしゃいでいた。なんの予告もなく現れた公彦に対し、この十七年間で蓄積した『聞きたいこと』が一気に押し寄せ、一英は逆に言葉を失ってしまう。
 今までどこにいたのかとか、元気でやっていたのかとか。どこで何をして暮らしているのかとか、生活に困っていないのかとか。というよりもう、そもそもちゃんと生きていけているのかとか。
 そんな基本的なことも聞きたいが、失踪した頃のどんよりしていた公彦と、今目の前にいるやたらピーカン気分な公彦とのギャップがありすぎて、まったく受け入れきれない。
 公彦は静かにパニクっている一英など完全スルーで、ごくごく自然にこの空間に馴染み、いつも通りみたいな顔をして「肉、肉!」などと騒いでいた。カッと眉を吊り上げた美洋が、早くも肉を頬張ろうとする公彦の手をひっぱたき、口を半開きのまま一ミリも動いていない一英を指さす。
「ちょっとおじさん! カズの頭が未確認情報でいっぱいになってるじゃない。頼むから放置しないで、近況の一つでも教えてあげてよ!」
「えぇー!」
 公彦が面倒くさそうな顔で遠慮なく抗議の声を上げると、目を剥いた美洋はチッと舌打ちし、トングを手に焼肉コンロから焼き上がったばかりの肉をごっそり撤退させる。肉を追い、近所迷惑なほどに切なく叫んだ公彦が、立ち尽くす一英をキッと振り向いた。
「おいカズ、聞け! 最近のおいちゃんはなぁ、信じらんねぇくらいの天国にいるんだぞ! すげぇぞ、毎日毎晩、女を素っ裸にしておっぱいガン見してても、それが仕事として成り立つという天国なんだ!」
 下品にも胸を揉むような仕草をする公彦に、一英が更に眉根をぐっと寄せ「はぁ?」と極まる混乱を象る。それを見ていた裕貴が、花火をバケツの水に放り込んで言った。
「おじさん今、ハワイ在住で絵描きやってんだって」
 嘘でしょという言葉も出ないまま驚く一英に、美洋が自分や両親も病室で初めて聞いて、仰天したのだと肩をすくめる。
 今一度、改めて公彦を見ると、今年で四十二になるはずのおじは、パステルイエローにヤシの木が踊るゴキゲンなアロハシャツと、膝辺りで短く切られたジーンズを身に着け、素足にチープなビーチサンダルを履いていた。
 公彦がドヤ顔で「アロハー」とフィンガーサインを作り、振って見せる。そのサインがよく見るとハワイのシャカサインではなくメロイックサインで、スタン・ハンセン状態になっているのだが、それを突っ込む余裕もなく一英が真顔で言う。
「……だからそんな珍奇な格好だったの……? なんか変だと思ったんだよ。俺が知ってるおじさんと言えば、若い頃からひねてて腐ってて、酔っ払っちゃあ全裸で街中走り回るような変態で、社会にはまったく適応できない人間だったからこの人ってほんとダメだなぁと元々思ってはいたけど、右腕失ったあたりからは更なる転落ぶりが物凄くて、一日中アパートの中でゴロゴロゴロゴロ、AVばっか見て一日終えて、障害者年金で細々と競馬やって、最後のほうは捕虜になった兵隊みたいにヒゲだらけで臭くてやせ細って汚くて、あぁもうこの人絶対社会復帰できないんだなって悲しくなるくらい、なんかもうヒドかったのに……!」
 歯に衣着せぬ水を立て板に流す一英に、美洋があんたも言うわねと口角を下げる。
「でもおじさんをそこまで転落させたのは、それは全部俺のせいだから、俺ほんとにもう……どうしていいかって……」
 一英が真剣に深刻な目を向けるが、公彦はひでぇなと頭をかき、確かに自分でもその頃が人間生活として一番ひどかったとは思うが、それは利き手がなくなり入浴や食事が面倒だっただけで、それ以外は別に事故前と変わらなかったはずだと笑った。
 公彦が美洋にもうその肉食っていいだろと伺いを立てていると、裕貴が「スイカ切ったよ、おじさん食べる?」といそいそ運んできた。公彦が喜んで頬張ったその切り身が豪快に四半分だったのを二度見し、美洋が裕貴を捕まえ「あんたバカじゃないの!」とつねる。だが裕貴は裕貴で「え、だって四人じゃん?」と叱られたことに驚いている。
 一英はそんなやり取りと、顔中べたべたにしながら志村けんの次くらいにスイカを早食いする公彦が「うんめぇな、これ!」とか言っているのをまじまじと見つめる。腕を失くした後、何を差し出しても食べようとしなった頃の面影はどこにもなかった。





 
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