>NOVEL>葛飾、最後のピース

第32話
悪者は誰
 

 一英が胸に湧いた当然の疑問を呟く。
「おじさん、不幸じゃないの……?」
 すると公彦は、一英のほうに向け、スイカの種を口から吹っ飛ばして言った。
「ぶっ飛ばすぞ、辛気くせぇ! この俺様が不幸に見えんのか?」
 さっと一英の隣に来た裕貴が、代弁じみて首を振る。
「見えないよ〜。不幸な人はそんな派手なシャツ着ないし、スイカの早食いもしないってー」
「ったりめーよ! 家じゃセクシーでスイートなハニーが待ってんだかんよ」
 セクシーでスイートってなによと美洋が言うと、公彦は
「俺、年明けにケッコンすんだ。絵のモデルしてた女とできちゃってよ」
と笑い、立ったまま回りながらスイカの種を散弾銃みたいにぶっ放した。頬に飛んできた黒い種をつけたまま唖然としている一英に、公彦はスイカの皮を限界までかじりつつ「あれ、信じてない? このスペシャルでハッピーなオーラ、伝わんない?」とにやつく。
 子供じみた種飛ばしを鬼の形相で睨んでいた美洋が、信じられないと言いたげに首を横に振った。
「おじさん、カズはおじさんのこと長年気に病んでたのよ? それなのに、なんなのそれ。おじさんのアッケラカンがカズに突き刺さって血だらけじゃない」
「だってよぉ、なんつーか縁起悪いだろ、カズのこのネガティーブなオーラ。こいつは無自覚かもしれないけど、ヘビーな後悔を二十年近くも俺に向けてんだぜ? このエネルギー受けすぎてハゲでもしたらどうしてくれんだよ。頼むから正月までにやめてろ、な。ワイハのケッコン式にお前らも招待してやっから」
 お願いだから空気読んでよと目力で訴える美洋だが、公彦はすっかり赤い部分のなくなったスイカの皮をボウルに捨てると、タオルで口元を拭きながら呆然自失の一英に歩み寄ってくる。
「なぁカズ、そんな深刻になんな。もうなくなっちまった俺の腕のことなんか、ホント気にしなくていいって。起きたことは起きたことなんだからさ、もう終わらしてくれよ。な?」
 優しげにそう言った公彦の左腕が、一英の肩を抱こうと伸びる。ハッとした一英は、半袖から露出する右腕に怯えた目を向けると、咄嗟に公彦から後ずさった。スイカを食べる裕貴がシャクシャクと小気味よい音を鳴らす中、一英は緊張に身を固め、公彦が手を止める。
「なんだよ?」
 公彦が心外そうに眉をひそめるのを見て、一英は自分の失礼な反応に嫌気がさす。
「ごめん。なんか、おじさんに触るの悪くて……」
「悪い?」
 まっすぐに覗き込んでくる公彦の視線から逃げるように俯けば、あの日の光景がまざまざと目蓋に蘇った。
 あの日、あの古びたアパートで、公彦は髪もひげも汚く伸び、風呂にも入らず異様なにおいを放っていた。助けようと伸ばした手をはねのけられ、そんなことをされる筋合いなどないと、恐ろしい形相で怒鳴り散らされたことが今でも忘れられない。
 悪いってなんの事だとしつこく聞いてくる公彦に、一英は消え入りそうな声でその記憶を伝えた。すると、きょとんとした公彦は、「俺そんなこと言ったっけ?」と指先で頬をかいた。
「言ったよ、覚えてないの? そのあと、おじさん失踪したんじゃないか」
「失踪なんかしてねぇよ。ただの引っ越しだ。しばらく千葉の船橋にいたぜ」
 自分が怒鳴ったことなど微塵も思い出せない様子で首を何度も傾げていた公彦は、「ま、とにかくあれだ」の一言であっさりと思い出すのを諦め、当の自分がもう気にしていないのだから、お前ももう気にするなと繰り返した。
 終わらせろとか気にするなとか、到底無理なことを押し付けてくる公彦に、自分が諸悪の根源だとは解っていても一英は次第に苛立ってくる。公彦が昔と変わらぬ調子で笑うのも、失われた腕先が堂々隠されていないのも、なぜだかすべてがひどく気に障った。思わず憤りが口をつく。
「俺はあの事故以来、もう誰かを巻き込んで傷つけることがないようにって思ってやってきたんだよ。もう同じ間違いしちゃいけないって思ってやってきたんだ」
 すると公彦はじっと一英を見つめたあと、ごく小さな溜め息を落とした。そこには呵責こそないものの、どうしようもないやつだという意が含まれているように一英には感じられた。
「あのなカズ。人を巻き込みたくないのなら、まず自分を巻き込むのをやめたらどうだ?」
「……俺が俺を巻き込んでるって、どういう意味?」
「必要以上に自分だけを悪者にしてないかってことだよ」
「なに言ってるの、おじさんの腕がなくなってるんだよ? 全部俺が悪いに決まってる」
 暑さのせいだけではない気持ちの悪い汗をかいて、一英は自責の目で公彦を見つめる。公彦はかゆそうに頬をかくと、お前にとって、事故原因を一手に引き受け罪の意識を一生引きずって生きていくことが趣味なのであれば、それも別にいいがと言った。そしてにっと笑う。
「でも少なくとも俺は、お前が悪いとは思ってねぇよ」
 おじが見せる優しげな笑顔に、自分のしでかしたことが許されていいわけではない。一英が反射的に「悪いのは自分だ」と繰り返すと、公彦は俺のぶんまで勝手に決めるなと多少表情をいかつく変えた。
「俺は片腕になったことが気に入ってんだ。俺は絵描きになれて良かったと、心底思ってんだぜ。工場仕事してた頃よりずっといい。あの事故がなけりゃ今の俺はないんだ。これはお前らのくれた人生なんだから、お前が過剰な自信持ったっていいくらいだ」
 沈痛な面持ちで奥歯を噛みしめる一英だが、公彦は触れられたくないと言って逃げたその肩を、あえてと解る力強さで掴んでくる。
「なぁカズ。自責ってのは、連鎖することがある。お前がお前を責める分だけ、お前を大切に思ってる人間もまた、自分を責めることがあるんだよ」
 その言葉に一英が一層眉を寄せるのを見て、公彦は戯れに肩を二、三度揉んでから、後腐れなく手放した。公彦の手形が残ってでもいるように、右肩がじんわりと疼く。
 公彦は再びテーブルに着くと、二人のやり取りをハラハラしながら見ていた美洋へ、大げさに箸を振った。
「なぁ美洋た〜ん、早く肉食わせてくれよ〜! おじさんゆっくりしてらんないのよ、今日帰るし」
「えっ、やだ、帰っちゃうの?」
「だからさっきから言ってんだろ、セクシーでスイートなハニーが家で待ってんだって! あーでもその前に、おじさんもっかい風呂入ってもいいか? 顔がもう、クワガタ寄ってくるレベルなんだよね〜」

 ◇

 ホノルル行きの深夜便で発つという公彦は、焼肉を食べるだけ食べると、裕貴の運転で羽田まで送られ帰っていった。キッチンで洗い物をする美洋を手伝い、スウェットに着替えた一英も皿を拭く。一英の表情はいつになく暗かった。
「おじさん、元気だったね……」
「そうねぇ、昔と変わらなかった」
「船橋にいたこと、姉ちゃん知ってた?」
「あたしだって失踪したと思ってたもの、初耳よ。なのに、なぜか裕貴だけは知ってたのよ、アイツ訳わかんない」
 一英は手際のいい美洋の手元を眺めながら「なんで今まで来なかったんだろ」と呟き、弾ける水流が平皿の泡を落としていくのを見つめる。その言葉に少しだけた躊躇いを見せた美洋だが、次々に小皿を流しながら「それがさぁ」と続ける。
「来ないでくれって、父さんと母さんが止めてたらしいのよね」
「どうして」
「その……おじさんの腕見るたび、あんたが自分を責めるだろうからって」
 そうなんだ、ほどの相槌もしない一英に、美洋が努めて明るく、「定期的に母さんが行って掃除とかはしてあげてたらしいから、生活は大丈夫だったみたいだけどね」と言う。
 カチャカチャと食器の触れ合う音ばかりが流れ、一英が唇を噛む。
(随分ひどい話だよな……)
 井梶プレスは父英博の実家だが、嫁いできた母洋子にもこの街に実家があった。母の実家は小さな商店で、夫に先立たれた祖母がしばらく一人で切り盛りしていたが、一英が小学校に上がる頃には近所にできたスーパーのせいで店をたたんでいた。その後二年ほどで祖母も亡くなり、店舗を含む実家は更地になり手放されたという。
 一英にとってその頃のことは覚えていないに等しいが、公彦が頻繁に遊びに来るようになったことだけは記憶していた。既に一人暮らしをしていたとはいえ帰る家を失った公彦は、きっとこの井梶家を実家のように思って通ってきていたに違いない。
(それなのに出入り禁止にされて、千葉で一人暮らしだなんて……)
 公彦からどんどんと大切なものを奪っていったのは、紛れもなく自分だった。悲痛な現実にやり場のない後悔が押し寄せる。胸に渦巻く、酸鼻な疑問が口をついた。
「結婚相手なんか本当にいるのかな」
「え?」
「もしかしたら嘘なんじゃないかって。ハワイにも住んでないかも」
「なんのためにそんな嘘」
 おかしいわけでもないのに美洋が笑う。姉が和まそうとしてくれていると知りながら、一英はその空気を断ち切らずにいられなかった。
「俺のために決まってるよ。母さんにそう言ってくれって頼まれた、とかさ」
「……どうかしら」
 声を沈めた美洋は、肯定も否定もしきれないような笑顔で首を傾げた。一英も押し黙り、水切りカゴに積まれていく皿を手に取る。
 もし本当にそんな嘘を頼まれているのだとしたら、一体どう償えばいいのか見当もつかなかった。理不尽な出入り禁止を言い渡された時も、きっとあのおじは「そうだな、それがカズのためだな」なんて笑って承諾したに違いない。
(比べて俺は親の推測通り、おじさんの腕を思い出すたび自分を責めて)
 真っ白な布巾でゆっくりと皿を拭きながら、堀田の罪をかぶった時もそうだったと思い出す。
 明らかに被害者はおじなのに、子供だったというだけで自分ばかりが守られ、おじは貧乏くじを引かされた。
 あの事故以来、俺はずっとおじさんを傷つけてきたに違いない。そう思うと、どうあがいても自分を許すことはできなかった。忘れることも、終わらせることも、できるはずはない。
 もう誰も傷つけたくないと思ってきたのに、どうして、こんなにも知り得ない形で人を傷つけてしまうのだろう。
 一英は大皿に小皿を重ね入れ、思いつめた表情で食器棚にしまう。その背を美洋が憂えた目で見つめていた。





 
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