>NOVEL>葛飾、最後のピース

第38話
連鎖を断ち切るもの
 

 旋盤の横に立つジャスティーは、身じろぎもせず一英を見据えてきていた。鋭い視線はかぶさった前髪とともに憂いがかり、意外なほど抑えた声量が返る。
「……あんたの気持ち? 解るよ。代弁しようか?」
 平坦にそう言ったその目は、わずかに潤んでいるように見えた。少年じみた声が、ゆっくりながらも流暢に言葉を繋ぐ。
「あんたは、悪いことをした堀田だけが、何事もなかったみたいにのうのうとしてるのが許せなかった。なんでおじさんの腕がなくならなきゃならなかったんだと、どれだけ問うたか解らない。でもたどり着く答えはいつも同じだった。それもこれも全部、俺がガキで馬鹿だったから、こうなったんだ。あんなこと企んだのは俺で、おじさんを巻き込んだのも俺で、先が読めなかったのも責任を取れなかったのも俺。俺がもっと大人だったら、あんなに浅はかでなかったら。どうして自分で何とかできるなんて思ったんだろう、どうして俺はあんなに馬鹿だったんだろう。堀田のことなんかすぐに警察に届けてれば良かったのに、そうすればおじさんから腕も普通の人生も奪うことはなかったのに。何もかも悪いのは全部俺だ、いっそ俺の腕がなくなればよかった。この腕を切り取っておじさんに返せたらと思うのに、それも怖くてできないなんて俺はクズだ。俺は謝っても謝りきれない、許されないことをした。俺はもう二度とあんな馬鹿な真似はしない」
「やめろ!」
 聞くに堪えなくなり、一英は怒鳴って工場のドアを叩く。ジャスティーの代弁が完璧に自分の心情を言い当て、息苦しくなっていた。
「あんた、なんなんだよ……」
 なぜこいつがそこまで知っているのか、いやなぜそれを知り得るまで俺に執着するのか。たかだか痴漢を撃退した場面を見ただけで、ここまで傾倒できることに気味悪さを覚える。一英は怒りと混乱と、恐怖の入り混じった表情で、ジャスティーを凝視した。
 感情を浮かべないジャスティーがすっと手を伸ばし、旋盤の電源を入れる。慣れた手つきで始動された主軸が回り出すと、ずり動いた白いブラジャーがすぐに回転部へ挟まって絡まり、機械は停止した。
 ジャスティーが身をかがめ、そこからブラジャーを引き抜こうとし始める。
「よせ! やめろ!」
 髪を揺らして、ジャスティーは二回、三回と引くことを繰り返す。その姿が一心不乱なのに淡々としすぎていて、一英の身の毛がよだつ。
 引き抜くことで再び旋盤が回り出せば、その回転にもう一度ブラジャーが絡め取られるかもしれない。公彦はそれで片腕を失ったのだ。
 ブラジャーが絡まなくても他の何かが巻き込まれ、機械に体を引っ張られてしまえば同じことだった。ジャスティーの胸で垂れるネクタイや、パレオの裾、無造作に乱れた長めの毛先、ブレスレット、そのすべてから目が離れない。
 もし頭が巻き込まれたらと考えると心臓が痛いほど打ち鳴った。
 頼むからやめてくれ――
 すぐにやめさせなければと思うのに、すくんだ足はドアより先に踏み入ることができない。焦る思考と冷や汗が浮かぶ額で、一英は実家の玄関に向かい
「裕貴!」
と叫んだ。
 だが頭上にある玄関から裕貴が出てくることはなく、美洋すら姿を現さない。終業後、二人で病院に父の荷物を取りに行くと言っていたのは、今朝のことだった。
「くそっ……」
 苦しく焦げるような思いで振り向けば、ジャスティーはまだ旋盤から下着を引きずり出そうとしていた。一英が乱れる呼吸で歯を食いしばり、工場の中へ入ろうとする。だがやはり足は動かず、全身をどす黒いものが脈打つような感覚が襲い、徐々に視界がぼやけていく。
 過呼吸になりそうなほど息ばかり吸いながら、一英は今一度、ドアの前でやめろと怒鳴った。
「やめられっかよ!」
 そう怒鳴り返した猫背が、思わぬことを続ける。
「あんたがそんな風になったのは、俺のせいなんだ!」
 ――俺のせい?
 何を言ってるんだと思いながら、一英はくらくらと吐き気まで湧き起こってくる胸を抑え、顔をしかめる。ジャスティーは旋盤から一時も目をそらさず、仇を仕留めんとするように声を荒らげた。
「あの時! あんたじゃなくて俺が痴漢を倒していたら、良かったんだ!  そうすりゃ、あんたは調子に乗ることもなかったし、堀田に吹っ掛けることもなかっただろ! そうすりゃ、あの事故は起きなかった! あの事故さえ起きなければ、あんたがあんたを嫌うことはなかった! こんなことになったのは、全部俺のせいなんだよ!」
 裏返りそうな声を呑みこむように、ジャスティーは悲痛な眉を寄せる。その目は何かを諦めたような、それでいて諦めきれていないような気配で曇り、じわりと暗く湿っていく。ジャスティーが自らに向けた怒りは、一英の胸をもえぐるような凶暴さで自傷した。
 同じ顔だ、と一英は思った。
 一英が吐き気を堪えながら見つめるそれは、横浜で撮ったというあの写真と同じ表情を象っていた。怒られた小学生のような顔は徐々に歪み、泣き崩れる前の赤みを帯びる。
 しばし溺れた魚のように苦しんだジャスティーは、決して涙を流すまいと奥歯を噛みしめ、消え入りそうな声を漏らした。
「俺ストーカーだから……知ってたんだ、あなたが超頑固だってことくらい……。なに言ったって拒否されるのなんか、解ってたのに……たまんなく辛いんですよ……あなたがこの街を拒否するたびに悲しくて……悔しくて……! 俺が拒否されるよりずっと辛いんだ!」
 地に吸い込まれるように日は暮れ切り、工場の中は目を凝らさねばならない闇を迎えていた。
 ジャスティーはひと吠えすると、機械油で汚れ、原型を失うほど巻きついたブラジャーへと更に深く指を絡め、全身の力をこめて引き始める。その力に旋盤がミシミシと言い出し、下着がゆっくりと引き出されてくる。
 人を巻き込みたくないのなら、まず自分を巻き込むのをやめたらどうだ――。
 一英の耳には公彦の言葉が思い出されていた。
 自責は連鎖するなどと言われても、正直、そんなものあるわけがないと思っていた。あったとしても見ないふりができる、とも思ってたかもしれない。それが、見ないふりも不可能なほど、残酷なまでに突きつけられるとは思わなかった。
 俺が俺を責めるから、あんたはあんたを責めるっていうのか?
「なんでだよ……」
 もう二度と人を傷つけないようにと生きてきたのに、どうしてそのせいでまた人が傷つくのだろう。巻き込みたくないと思ってしたことですら人を巻き込むなんて、俺は一体何がしたかった。
 こんな形でまた同じ事故が起きる?
 それじゃ何の意味もねぇよ……。
 暗然と見開かれた一英の目は、危機に瀕する男の姿を映し出す。気づけば涙が一筋、頬を流れ落ちていた。
 その瞬間、旋盤がガコッと鈍い音を上げる。
 地獄の窯が開くような響きにハッとし、一英の背筋を冷たいものが走る。
 目に入ったのは、引きずり出された下着が最後の絡まりを解かれる瞬間だった。
 咄嗟に踏み出した一英は、工場へと飛び込み、ジャスティーの体を抱え、己もろとも身を投げる。二人が大きな音を立て床に倒れ込むと、障害を失った旋盤は高い叫びを上げ、無機質な殺意で再び回り始めた。
 旋盤から離れた場所に強か身を打ち付けた二人だが、一英は跳ね起き、すぐさまジャスティーの腕を引っ掴む。どこも失われていないかと確かめる切迫をよそに、ジャスティーは妄動にぎらついた目で一英の肩を嬉しそうに揺さぶってきた。
「……入れた! 入れたじゃないですか! 解るでしょ? あなたは大丈夫なんです! あなたは人を危険に巻き込んだりしない! あなたこそ、人をちゃんと助けることができるヒーローなんです!」
「――ふざけんな、馬鹿野郎!」
 振り切った一英の腕が、ジャスティーの頬で強烈な平手を打つ。
 俺に大丈夫だと伝えるために、そんなことのためだけに、こんな危ないことをしたというのか。
 その身勝手な行動と言い分が許せず、怒りが噴き出していた。
「あんたがあの痴漢を倒さなかったせい? んなこと、俺は考えたこともねぇよ! そこまでこじつけて、あんたを責める必要がどこにあんだ、そもそもあんたには何の関係もねぇことだろ! あんたが全部自分のせいだと考えんのは勝手だけど、俺はそんなことまでされる筋合いねぇんだよ!」
 平手打ちに身を固めていたジャスティーが、常から下がった眉を更に下げ、怯えたような目を向けてくる。一英は自分の口から出た言葉に息を呑んでいた。
――そんなことされる筋合いねぇんだよ!
 その言葉はあの日、公彦も言った言葉。
 同じ言葉を自分が口にした今、あの日なぜそう怒鳴られたのかを、一英は突如鮮明に思い出した。記憶の波に翻弄され、蘇った真実に戸惑った一英は、燃えるように赤くなる顔を両手で隠す。
 額を抱え、髪をかき乱しながら出てけと叫ぶと、大人しく立ち上がったジャスティーは無言で走り去っていった。
 工場から人の気配が消え、一人残された一英が大きく嘆息する。
 回り続ける旋盤の音が響き渡る中、事故の危険に直面した両手を広げて目を落とせば、制御できず小刻みに震えていた。
 あの日公彦に言われた言葉を反芻すればするほど、その馬鹿馬鹿しさに体中の力が抜けていく。一英は床に膝をついたまま、情けなく崩れ落ちた。
「……嘘だろ……俺、そんなこと根に持ってたのかよ……?」
 床に伏せ、ダンゴムシのように丸くなってしまった一英が、自らの愚かさを憎々しく呪う。
 あの日は、公彦が退院して二ヶ月ほど経った頃だったか。
 確か三学期がもう始まっていて、一英は放課後になると公彦のアパートに直行し、不自由な公彦の生活を自ら進んで手伝う毎日を送っていた。
 いつものように身の回りの世話をしながら、幼い一英はその日も深刻な顔で公彦の右腕を見つめた。肘から先を失った右腕は、公彦が動くたび、毛玉だらけのセーターの袖を余らせてぶらぶらと揺らす。
 うつむき、後悔が滲み出る一英の様子を、公彦は横目で見て困ったなという表情を象っていた。ちり紙取ってと言った公彦が、鼻をほじりながらニシシと笑う。
「俺さぁ、手術が終わって目が覚めた時、なんだ腕失くすってこんなもんか、と思ったよ」
「……」
 公彦の屈託のなさそうな笑顔が、一英には逆に苦しかった。気を遣って何でもない事みたいに言っているだけだと、子供心にも解る。
「日常生活もたいして困ることなんかねぇんだわ、だって左があるし。今じゃ鼻ほじるのくらい朝飯前よ。ただ唯一困るのは、アレだな。慣れ親しんだ『友達』が死んじまったから、新しい友達を鍛えないとなってことくらいで……」
「友達……?」
 下らねぇだろと言う代わりに、公彦は特段下品に笑った。一瞬、意味が解らず眉をしかめた一英だが、いつ来ても汚い部屋に散乱するビニ本が目に入りハッとする。
 それは大変だろう、と思った。
 なぜならそれは、公彦の生きがいのようなものだったからだ。いつでもそのことばかり考えて、そのことを話す時はいつでも子供みたいに笑っていた。
 困っているのなら何とかしてやりたい、でもどうやって。と考えた次の瞬間、一英が閃いたのは、自分の手を使うことだった。
「じゃあ俺が代わりに……!」
 咄嗟にそこへ手を伸ばすと、だぁッと叫んだ公彦が飛び退いた。
「ふざけんな、馬鹿野郎! お前にそんなことされる筋合いはねぇんだよ!」
 そうして一英の手は、強くはねのけられた。
 公彦は一英の起こした予想外の行動に慌て、股間に伸びた手を打ち払っただけだったのだ。「そういう意味じゃねぇ!」と笑いながら怒鳴られたことも、今更になって思い出された。
「そりゃ、筋合いないって言われるわ。馬鹿か、俺」
 動けなくなったダンゴムシが、弱弱しい声で呟く。
 もしかしたら、恵が言っていたように「お節介ありがとう、嬉しいよ」という意味で、あの日の公彦も「ふざけんな、馬鹿野郎」と言ったのかもしれない。
「これほどとんでもないお節介もないよな……」
 なぜ自分は小四にもなって、あの流れでここまで傷つくことができたのだろう。繊細かよ、と馬鹿だった自分を戒める。なんだかもう因果関係が間抜けすぎて、あの日の自分に飛び蹴りを食らわせたい気分でいっぱいだった。
「だから言ってんだろ? この世で一番要らないのは、生半可な正義感なんだよ」
 そう自らに呟いた一英は丸くなったまま、額をぐりぐりと床に擦りつける。なぜだか笑えてくる涙が溢れ出していた。

 井梶プレスから飛び出し全力で街を駆け抜けたジャスティーは、行くあてもなく、ただ一英と初めて出会ったあの痴漢公園へと向かった。逃げるように公園へ飛び込んでやっと、その足が止まる。
 形を変えようといくら掻きまわし泡立てても、気泡は水中を舞い上がり、虚空へ溶け消えていく。そして水面はすぐに静けさを取り戻してしまう。もがくことを嘲笑うように。
 ジャスティーは大きく喘ぎ、そんな果敢なさをなじるような目で公園を見渡す。そこに焼きついたほんとのヒーローの姿が、彼には今でも鮮明に見えていた。
 額や首筋をつたう汗が滴り、その行方を追うように視線を落とせば、旋盤に食われてもいいと思った腕がいまだに震えている。そのどうしようもない情けなさに顔を歪め、震えを抑え込むように両手を絡めたジャスティーは、こらえきれなくなった嗚咽に一人、慟哭した。

 その後、ものすごく長く感じられた時が流れ、ダンゴムシは体を解き、濡れた目を仰向けにさらして床に倒れていた。
 滲む天井をぼんやりと眺め、ただ無心で呆然としていたが、旋盤の稼働音に途方もない懐かしさを感じ、子守唄を聞いている子供のように安堵している自分に気づく。
 一英はむっくりと起き上がり、落ち着いた足取りで旋盤に近寄ると、間違いのない手順でその回転を停止させた。
 暗闇に静寂が訪れる。





 
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