>NOVEL>葛飾、最後のピース

第39話
愛の奇襲攻撃
 

 父、英博が入院してから十一度目の朝。
 一英は駐車場の隅にある、ペンキで大きく井梶プレスと書かれたベンチに座っていた。工場の陰になり日の当たらないそこは、日向よりも幾分だが涼しく、つっかけを履いた足をだらしなく投げ出す。
 一英は背もたれに身を預けながら、ベンチのすぐ横にある搬入出用の大型シャッターを見上げた。シャッターの向こうはすぐに作業場で、そこに幾つもの機械が並ぶ様子は見なくても目の中に描ける。
 咄嗟のこととはいえ、昨夜自分がその中へと飛び込んでいったなんて、嘘のようだった。それでも、ジャスティーを抱えた腕の震えと、回り出した旋盤の悲鳴がまだ生々しく体に残っている。
 一英はまた震え出しそうな腕を胸の前で組み、足元に目を落とす。シャッター前のコンクリートには、機械油の黒ずみや、茶ばんだ赤サビなどが大きなシミを作っていた。
 午前中に退院予定の父を迎えに行くため、身支度をした裕貴が外階段を下りてくる。
「兄ちゃん、一緒に行かないの?」
「俺行ったら、後ろ狭いって。いいだろ、行かなくても」
 ミニバンの運転席を開けエンジンをかけた裕貴は、窓を全開にして熱気を逃がす。ゴーゴーとエアコンが張り切る音を聞いていた一英に、裕貴は閉ざされたシャッターを指して苦笑いした。
「なーんか、暇だね。土曜だから仕事ないのは当たり前なんだけど」
 一英は相槌に頷いただけで、特に返事をしない。ほどなくして、美洋がヒールを忙しなくカンカン言わせて階段を下りてくると、ミニバンは急かす姉に負ける形で二人を乗せ、駐車場を飛び出していった。
 走り去るミニバンを最後まで見送った一英は、ベンチからゆっくりと腰を上げ、シャッターの脇にある扉に向かった。
 鍵を開けノブをひねれば、人が出入りするためのそれは軋みながら開き、その先を覗いた一英がそっと中へと足を踏み入れる。
 昨日、無我夢中で入ってしまったからなのか、工場に入ること自体にはもう、思ったほどの抵抗はなかった。むわっとした熱気の中、鉄くずと油の入り混じったにおいに、すんと鼻を鳴らす。
「もう注文受けてないんです」
 今朝かかってきていた電話にそう答えていた美洋の声が耳に蘇る。自分が生まれる前からここにあったこの工場は、あと数日でとうとうなくなるのだろうか。そんなことを考える一英は、もうすぐお役御免となるかもしれないプレス機を、諦め混じりの目で見つめた。
 入口からほど近い工場の片隅には、父専用の作業台があった。壁に向かって設置されたその台には椅子が備えてあり、目の前の壁には、小さな引き出しが幾つも積み重なった薬箪笥ような棚がある。引き出しには一つずつ、きちんと番号が振られていた。
 この引き出しの一つひとつに、極小部品が少しずつ入っている。それを知っていた一英はゆっくりと作業台に近寄り、無造作に延ばした指先に当たった引き出しを開ける。その中に指を差し入れれば、極小部品がかすかに金属音を鳴らした。
 おもむろにポケットを弄った一英は、凛に渡された小さな部品を取り出す。手の平で転がるそれは、何に使うのか皆目見当もつかない小さな部品だった。
 椅子に座りスタンドライトをつけ、抜き出した引き出しの中を丁寧に覗き込む。凛に渡された部品と引き出しの中を見比べる顔に、金属片のはね返す光が無数に瞬いた。
 一英は今見た引き出しをテーブルの隅に置くと、別の引き出しを端から順に抜き取り、一つひとつ覗いては作業台へと並べ始める。流れる汗を拭いながら、時折、首を横に振ったり傾げたりする。どの引き出しにも同じ形のものは入っておらず、実に様々な種類の極小部品があった。それなのに、凛の寄越したのと同じものが見つからない。
 形の違う部品たちがそれぞれ四角く区切られた中に収まり、作業台の上で整然と並んでいく。そのどれもが光り輝くのに、どれ一つとして、一英には用途の推測すらできなかった。
 黙って見つめていると、ふと自分の大きさが解らなくなるような感覚に襲われた。自分のこの目から極小部品までの距離は数十センチしかないはずなのに、何億光年も離れているように感じる、そんな感覚だった。
 その感覚の中では、部品一つひとつが小さく輝くさまは星屑のように美しく、集まって固まるさまは幾つもの銀河のように壮大だった。
 どのくらいの時間そうしていたのか。退院して帰ってきた英博が開いていた扉から工場の中を覗き、そこにいた一英に目を奪われる。
「カズ、お前……」
「おかえり。ごめん、散らかして」
 一英は椅子から立ち上がり、唖然とする英博にばつの悪そうな笑みを見せる。ミニバンから降りた洋子や美洋、裕貴も、どうしたのかと英博の後ろから工場を覗き込んでくる。一英が工場に入れないことを知る家族は、皆、口にする言葉を失っていた。
 一英は工場の入り口で棒立ちしている英博に歩み寄り、凛から渡された部品を差し出す。すると職人は、戸惑いながらも迷わずこう言った。
「……これは染山さんのところに作った部品じゃねぇか」
「覚えてるの?」
「当たり前だ。自分の仕事忘れる職人がどこにいる。二十年くらい前の話だ。なんでお前がこれを持ってんだ」
「まぁ色々あって……そこのお弟子さんから渡された。新しいのと換えるんじゃない?」
 指先で転がしていた部品を明かりにかざし、英博は軽くうなる。
「ま、換え時だな」
 そう言って作業台に近寄った英博は、極小部品の入った棚へ迷いなく手を伸ばし、引き出しを一つ抜き取る。そこには凛から渡された部品とそっくり同じものが入っていた。
「あそこにはスペアを幾つか渡してあったはずだが……二十年も前のことだし足りなくなってねぇか心配だな、あとで連絡入れて、これ全部やっちまうか」
 英博の持つ小引き出しを、一英が隣から同じように覗き込む。それを見た洋子と美洋は、信じられないものでも目撃したように顔を見合わせた。 裕貴がソソソと工場に足を踏み入れ、肩を並べる父と兄をうかがうようにへらへらと笑う。
「なーんか、もったいないよねー。部品もこんなに残ってるのに。ねぇ父さーん、まだ急いで工場たたまなくたっていいんじゃないのー?」
「もう決めたことだ」
「ですよねー」
 英博から冷たく返った即答に、裕貴は再びソソソと後ずさりする。近寄ってきたその後頭部を、「余計なことを!」と言わんばかりの美洋がベチッと引っぱたいた。
 英博が持っていた引き出しを棚に収め、一英も作業台に並べたそれらを番号順に戻していく。二人の姿を家族が黙って見守っているところへ、工場の外から突然に大きな物音がし、威勢のいい男の声が響いてきた。
「ちわーっす、ご依頼の資材、お届けに上がりましたー!」
「――資材?」
 美洋が驚いた声を上げ、続いて裕貴と洋子も駐車場を振り返る。工場前には大きなトラックが二台停まり、数人の配達員が荷卸しを始めていた。慌てた洋子が、配達員を止めに駆け寄る。
「な、なんですか、これ!」
 トラックのボディに書かれていたのは馴染みの材料屋の屋号で、配達員は戸惑う家族を尻目に下町全開な勝手さで工場へと入ってくる。そして、道路に面したシャッターを断りもなく上げると、あれよあれよという間に、原料を在庫許容限界まで積み上げていった。
 英博が取り乱すこともなく、その様子を厳つく見つめる。隣では一英が、何が起きているのか解らず唖然としていた。
 速やかに仕事を終えトラックに乗り込んでいく配達員たちを、美洋が説明を求めて追いかける。
「ちょっと待ってください! 何かの間違いです、うちは頼んでないんです!」
 完全にテンパった様子の美洋に、責任者らしき配達員は納品書を渡しながら、「間違ってないっすよ?」と爽やかに笑う。トラックは二台ともあっという間に去っていってしまった。
 運び込まれた山のような材料と、手の中に押し付けられた納品書を、美洋は冷や汗をかきながら何度も見比べる。ゆったりとした足取りで、英博が近寄った。
「おい美洋、どういうことだ?」
「あたしだって、解んない! 頼んでないもん!」
 英博は美洋から納品書を取り上げ、覗き込む。うろたえていた洋子もそれを一緒に見ようとするが、今度はふいに事務所の電話が鳴り、慌てて踵を返し工場の奥へと駆けていく。続いて起動したファックスも、なにやら印刷しようとし始めていた。
 電話を受けた洋子が、すぐに素っ頓狂な声を張り上げる。
「はい? いえ、あの、注文分って? うちはもう受けてませんよ?」
 通話相手に事情を質問しまくっている洋子の後ろで、ファックスがグワッチャグワッチャと騒ぎ、何枚もの紙を吐き出していく。バサバサと床に落ちるファックス用紙に、美洋が耳を覆うように頭を抱えた。
「あーもう! 今度はなんなのよ!」
 長い黒髪を振り乱し、絵に描いたようなパニックぶりを発揮する美洋を、一英が「落ち着け、落ち着け!」となだめる。
 一英が美洋をいなしている間に、裕貴はパニックとは無縁な足取りでファックスに歩み寄り、印刷された紙を取り上げた。その目が見たのは、「祝・退院!」と毛筆でデカデカと書かれた文字で、裕貴も思わず「んん?」と首を前に突き出す。
 続きにはこれでもかの達筆で、
『汗の君 プレスにウエス 道半ば』
という奇妙な川柳がついていた。
 そんなA4用紙を渡され、一英も美洋も「え、なにこれ、いたずら?」「迷惑ファックス?」と目を白黒させる。
 古いファックスはまだまだ一人で騒ぎながら、途切れることなく大量の注文書を吐き出していく。裕貴は注文書をかき集めると、そのほとんどが納期指定されていることに吹き出し、問題意識の薄そうな声で父を呼んだ。
「ははっ、父さん、これジジイどもにやられたね! みんなもう口座に支払いしてるっぽいよ。作んなかったら売りつけ詐欺とかになるんじゃね?」
「やだ、納期が明日のもあるじゃないの!」
 美洋がアワアワしながら青ざめる。
 一英が裕貴の手元を覗くと、どのファックスも一つのテンプレートをコピーしているのが一目瞭然で、このために注文書をオリジナルで作成したことがうかがえた。フリーハンドで描かれた表の歪みや、その下にある道路標識じみた工場のマークを眺めながら、徒党を組むジジイどもの足並みが揃いすぎなことに感心と呆れが入り混じる。
「ゲリラ注文……ってことか?」
「まぁ、工場閉鎖の噂もジジイどもに広まってっし、父さんの退院日を狙ってゲリラ注文なんて、そんだけ惜しまれてるってことだよね」
 裕貴がこんな時でも軽々しく笑えるという残念な精神構造を存分に披露しながら紙束を差し出すと、それを黙して受け取った英博は、注文書の何枚かに目を通し溜め息した。
 そして電話中の洋子の脇を通り抜け、更衣室へと向かう。
「ちょっと、あんた?」
「嘘でしょ、父さん……退院したばっかで何す……」
 英博が従業員用の棚から洗濯済みの作業着を抜き取り、躊躇なくポロシャツを脱いだのを見て、洋子と美洋がキャーッと飛び上がる。
「あ、あ、あ、ああんた! あんた!」
「ちょっと、父さん! いくら父さんが職人気質でも娘として許さないわよ! いま無理したらまた体壊すじゃないの!」
「仕方ねぇだろうが。引退できると思って帰ってきてみりゃ、あのジジイども、面倒な注文ばっか寄越しやがって」
 肌着の上から作業着を羽織ると、英博は作業台にすべての注文書を並べ、そこから割り出した生産スケジュールを白紙にメモし始める。その様子に地団駄した美洋が、もう、と声を張り上げた。
「こんな横暴な注文、冗談に決まってるじゃない! 断ればいいんでしょ、断れば! あたしが話つけるわよ!」
 心配のあまり注文書を奪い取ろうとする美洋に、英博は「いいんだ」とその手を制す。
「よく見ろ、いくら面倒な注文と言っても、うちの職人の数や腕を計算して、品と数量を頼んでやがる。そのうえ、病み上がりの俺が生産に参加しても無理じゃない範囲での納期指定だ。横暴なわけじゃねぇ」
「でも――」
「ジジイどもには怒られるかもしれないがな、俺はこいつをはなむけだと思うことにする。世話になったジジイどもだ、心を込めて最後の仕事をさせてもらえれば挨拶代わりにもなるだろう。工場はこの注文終えたらたためばいい」
「父さん……」
 英博の真摯な気配に、それ以上、言葉の出なくなった美洋が口を閉じる。英博の表情や声は至って穏やかだった。注文書を見ながらしばらく黙っていた英博が、走り書きしたメモを読み返し、そうだなと頷く。
「この程度の注文なら、九月の二週目には余裕で納品を終えられるだろう。だが相手は手練れのジジイどもだ、油断してるとまた注文入るぞ。従業員緊急招集したら、ファックスも電話も線抜いとけ」
 そう言った英博は、まだ病み上がりと解る足取りでプレス機に向かい、早々に点検をし始める。裕貴もその背に「手伝いマース!」と声をかけ、いそいそと作業着に着替えだす。
 洋子と美洋は顔を見合わせ、英博の頑固さには歯が立たないとばかりに、そろって深々溜め息をした。「やっぱりやるのね」「やるのよ」「だから職人はいやなのよ」「ねぇ」と二人は囁き合い、洋子は従業員に連絡を取るため渋々電話へと戻っていく。
 一英は、作業台に残された注文書を整理しだした美洋に、明日が納期なのは幾つあるのか、どこに配達すればいいのかなど尋ねた。すると美洋が答えるよりも早く、英博の厳しい声がかかる。
「カズ、お前はもう帰っていいぞ。長いこと手伝わせてすまなかったな。お前の休み、全部使わせちまったらしいじゃないか」
「……いいよ、休みのことなんか。それより父さんの体調のほうが心配だって。俺にできるのは配達くらいだし、手伝うよ」
 今更、会社の事なんて考える意味はない。父にだけ失職を伝えていない後ろめたさを払うように、一英は努めて軽やかに笑顔を作った。
 だが父からは、幾分鋭さを帯びた視線が返る。
「だめだ。お前にはお前の生活があるだろう」
 一英は返す言葉に詰まったが、ここで、はいそうですかと引き下がる気にはなれなかった。ジャスティーが言うように、このままこの工場がたたまれたら、自分だけでなく、家族もみんな、あの事故のことを一生引きずるように思えた。
 一英は父のもとへと歩み寄るが、何をどう話そうか、言葉を探して唇をもごつかせる。機械を背にした英博が、先に口を開いた。
「倒産のことは母さんから聞いた」
 驚いて顔を上げると、父は責めるでもなくこちらを見ていた。
「無職になっちまったのは仕方ねぇが、だからってダラダラ工場を手伝ってどうする」
 一英は焦るような気持ちで、瑠奈の働く会社の面接を受けたことを伝えた。彼女の紹介だから恐らくは受かるだろうが、その合否が解るのは今度の月曜日だということ、受かったとしても初出勤は九月一日になるということも伝える。
「だから俺、八月いっぱいは手伝えるんだ」
 その面接も、瑠奈と別れた今となっては本当に受かるかどうか怪しかった。紹介した瑠奈が撤回すれば、白紙に戻る程度の話なのかもしれない。
 それでも今は、次の就職先を得ることより、井梶プレスを看取ることのほうが、大事なことのような気がしていた。
「手伝わせてほしい」
 そう申し出る一英を、英博は黙って見据える。離れた場所で注文書を抱える美洋は、身を固めたまま、はらはらと二人を見ていた。心根まで見透かしてくるような父を、一英は今までの人生で初めてなのではないかと思うくらい、まっすぐに見つめ返す。
「工場……閉めるんでしょ? そりゃ工場は今でも苦手だけど、それでも実家の一部なんだよ。今このまま帰って、次に来たとき工場がなくなってるなんて、やっぱ嫌だ。せめて最後の最後くらい、少しくらい、俺にも手伝わせてよ」
 この工場は自分のせいで死に絶えるのだ。それを救済できないのならばせめて、そのことをもう誰も引きずらずに済むよう、逃げずに看取るところを見てもらいたかった。
 家族全員が見守る中、父が深く息をつく。
「お前、公彦に会ったらしいな。工場を手伝えりゃ、お前の気持ちにケリがつくのか?」
 そうでないならお前に手伝わせる気はない、さっさと自分の生活に戻れと、父は無言の中に伝えてきていた。固唾を呑んだ一英が、同じ質問を自らの胸中で繰り返したあと、確信をもって頷く。
 それを見て英博は、「だったら……」と、工場に置かれる幾つもの機械に視線をなぞらせた。
「工場は八月三十一日できっちり閉めることにする。生産は多少きつくなるがやってやれないことはない。それならお前も、最後まで配達を手伝えるだろ」
「ありがとう」
「そのかわり、これが終わったら工場のことはすべて忘れろ。工場をたたんだあとのことも、あの事故のことも、全部だ」
 そう言いつけると、英博は一英に背を向け、再び機械の点検を始めた。
 ――忘れる。
 それが自分にとって実際にできることかは解らなかったが、一英は頷き、父の背に小さく声をかけた。
「……継げなくてごめん」
 背を向けたままの英博は返事をしなかった。
 それが返事だと知る一英は、滲みそうになる涙を堪える。
「おい、美洋! はやく職人呼び出してくれ」
 英博はそう言いながら、また別の機械へと移っていく。飛び上がった美洋は慌ただしく自分の携帯を取り出し、電話帳を取りに事務所へと走っていった。
 決して振り向かないのが優しさと解る背を見つめると、一英は裕貴を引き留め、旋盤を今一度しっかり点検するよう頼んだ。





 
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