>NOVEL>葛飾、最後のピース

第46話
新たな古巣
 

 八月も最後の土曜を迎えた夜だった。
 今日も熱かった太陽はその熱気だけを地上に残し、触れればまだ冷めやらぬアスファルトが街を熱帯夜に仕立て上げる。いまだ日没に気づいていないのか、辺りには蝉の声がうるさく響き渡っていた。
 駅前にある煌々と眩しい携帯ショップから出てきた一英は、そのドアをくぐる瞬間、入店しようとしてきた男性客とぶつかりそうになる。
「……っと、すんません」
 口元に穏やかな笑みを湛え、一英は軽く会釈する。男性客はそれを見もせず不愛想に入店していくが、一英は気にする素振りもなくその場を後にした。
 携帯ショップの軒先では、ジャスティーが暑苦しそうに電柱の鳴き声を見上げていた。一英が裕貴から借りたビーチサンダルをペタペタ言わせながら近寄ると、その音に気づき大騒ぎで手招いてくる。
「早く早く! 遅いです! 遅れちゃう!」
「わかってるよ」
 一英は、裕貴のタンスから抜き取った和柄のTシャツに黒い縞模様のステテコ姿で、手には真新しい携帯の入ったショップバッグを下げている。
 一英の前を行くジャスティーはと言えば、紺地に赤の細かな花火柄が染め込まれた江戸小紋のシャツワンピを着て、真っ赤なスニーカーを地面に打ち鳴らしていた。
(慣れって恐ろしいな)
 すっかり見慣れてしまっていたが、客観的に見ればどう見てもやはり男がスカートは不審者だし、いくら新小岩でも完全に浮いていると思う。現に通行人がぎょっとしているのを一英は一瞥した。
 急ぐ二人の後ろから、自転車に乗ったスウェット姿の酔っ払いがやってきて、ベルをかき鳴らす。駅前の商店街をふらふらしながら走ってくるのは以前もどこかで見かけたじいさんで、その時と同様、今日もジャスティーめがけて自転車を突っ込ませてきた。
「あはー! やめてくださいよぉ!」
 ジャスティーがけらけら笑いながらその前カゴを受け止めると、じいさんはやはり、ケッとひと吠えして去っていく。ぽかんとする一英にジャスティーが笑いかけた。
「あのじいさん、僕を見かけると必ず自転車で轢く真似をすんですよ。友達です」
「へぇ……」
 一英は迫ってきたたつみ橋交差点を渡りながら、改めて歩道橋のなくなった頭上を見上げる。そのまま平和橋へと向かっていく途中、通りすがりの小学生たちが一英を見つけ、駆け寄ってきた。
「ヒーローさーん!」
「ねぇ、またカタヌキのコツ教えてー!」
「やだよ。どうせ今年の盆踊りはもう終わっちまったんだろ? 来年まで自主練しろ、自主練!」
 子供たちは一英の腕を引っつかんで振り回したり、背中に負ぶさってせがんでくる。だが笑顔の一英は、それらを軽いステップでいなし、狭い歩道を器用にすり抜けていく。
「超びびったよ、兄ちゃんが祭りの伝説になってて」
 盆踊りの夜、そう言って裕貴が差し出したのは、携帯に動画で送られてきたという一英の勇姿だった。帰宅したばかりの一英がカタヌキ勝負に臨む自分の姿を見ていると、隣から覗き込んだ美洋が大げさに顔をしかめる。
「うわー、何度見てもめっちゃ早い! 凄っ、つーかもうキモッ!」
 そんな姉からのひどい感想を思い出す一英は、少年たちに手を振り、
「宿題やれよ!」
と叫んだ。
 ぶーぶー文句を言いながらも「来年教えてよね!」と去っていく彼らに、オッケーサインを作って見せる。
 先を行くジャスティーに追いつけば、冷やかすような視線がこちらを向いた。
「ヒーローさんてば、すっかり大人気になっちゃって。カタヌキ教えてーとか、葛飾音頭の踊り方教えてーとか、盆踊りの間中、引っ張りだこでしたよね」
「どうせ子供だ、来年には忘れてるよ」
 ジャスティーは笑い、ご機嫌に鼻歌交じりで歩いていく。
 流れ続ける鼻歌は一英の知らない曲ばかりだったが、一英にはそれを邪魔してまで話したいことなどなかった。
 そうして並んで歩いているうちに、何度も互いの肩がぶつかる。突然、ジャスティーがぐふぐふと笑った。
「横浜では、『新小岩人同士って、歩く時の距離が近いよねー』なんて言われなかったですか?」
「え?」
「こないだ江田っちと、群馬に住んでる友達んとこ遊びに行ったんですけど、『二人ともくっつきすぎだろ』って笑われました。道がどんなに広くても、自然とくっついちゃうんですよね。なんかもう癖じゃないですか?」
「そんなこと指摘された覚えはねぇな。つか、そもそも横浜で新小岩人と歩いたことねぇし」
 互いの肩が触れることなど、この街で並んで歩く限り誰にでも起きてしまう現象だし、歩道がこう狭くては当たらぬ距離を保てるわけがない。
 日常的すぎていまいちピンとこなかったが、言われて気にした一英は、思わずジャスティーから距離を取る。だがそれを許さぬ暴走自転車のベルが背後から鳴り、すぐさま接近を余儀なくされた。
 そういえば、横浜に引っ越した当初、歩く姿がキョドりすぎだと同僚に笑われたことがあったと一英が言う。
「端っこ歩きすぎとか、誰かに尾行でもされてんの、とか言われたな」
「尾行って、それ振り向きすぎってこと?」
「だってとりあえず気になるだろ、背後」
 同意したジャスティーの笑い声が、すぐ横を走り抜けたトラックの音に掻き消される。一英は煙たく襲ってきた排気ガスを吸い込んでしまうが、彼の体は、それが肺に到達する前に口から吐き出すという、自然と培った対処法を思い出していた。
 道を歩く時、背後を気にして何度も振り向くのは、新小岩人の癖なのかもしれない。自転車、不審者、ひったくり。理由は様々だが。
「新小岩、狭いからな」
 一英がそう言った瞬間にもまた二人の肩が当たり、当たった肩は空間の狭さを物語る。
 ジャスティーは再び鼻歌を歌い始め、一英は、この狭さに言い知れぬ安心感があるのだということを、今になって感じていた。
(なんだろうな、この感じ)
 一英は、言葉にならない感覚をどうにか言葉で表せないかと、己の胸の内を秘かに探る。すると、「でも」と言ってジャスティーが顔を上げた。
「数年後には、新小岩駅の中にも新しい歩道ができるらしいですよ。南口と北口がつーつーになるそうです」
「へぇ。それじゃ、あのクソ狭いガード下を、みんなして通らなくてもよくなるわけ?」
 今現在、新小岩駅の南口と北口とを繋ぐのは、一英が汚いと言って嫌うあのガード下のトンネル、それだけであった。
 他に選択肢もなく、駅の反対側に用のある者はみなこぞってそこへ向かうのだが、ただでさえ狭い道に駐輪自転車が溢れていたりするものだから、そこは結構なデンジャーポイントとして一英は認識していた。
 危険と解っているのに、調子づいてスピードを出すおばちゃん自転車などは、歩行者を避けきれなくなると遠慮なく急ブレーキをかましたりする。そうするとトンネル内には「油させよ!」な甲高いブレーキ音が響き渡り、間近でお見舞いされれば鼓膜の痛い思いをするのが常だった。
 最近は放置自転車の撤去も強化されているから、そこまではひどくないとジャスティーが笑う。
「あなた狭い狭いって言うけど、新小岩だってそれなりに広がろうとしてんですよ」
 そう言ってジャスティーは再び歌い出し、一英も「涙ぐましい努力だね」と眉を下げた。またも後ろから自転車のやってくる気配がして、一英が歩きながら振り返る。
 と、前方の曲がり角から、不意に足早の女性が飛び出してきた。きゃあという悲鳴が上がり、完全に前方不注意で彼女とぶつかってしまった一英は、密着とまではいかないが思いのほか接近してしまった女性を胸の中に見下ろす。
「ごめんなさいッ!」
 そう謝った若い女性は、自分のほうが不注意だったという顔で見上げてきていて、一英は思わずにやついてしまいそうな頬を押し殺した。感じよく頭を下げて立ち去っていくその背を見つめながら、一英が呟く。
「俺、今初めて、この狭さにも価値があると思ったわ」
「やーだ、お下品」
 上品ぶったジャスティーは揃えた指先で口元を隠し、一英をじと目で見上げる。
 その存在は、一英の手が容易に届く距離にいた。
「ナンパしてみたらどうです?」
「やだよ。可愛げのある新小岩女子が一番怖いんだぞ。ナンパなんかしようもんならソッコー鉄仮面になって――」
「不審者通報すんですよね」
 確かにこの街は狭い。
 だがもし、どんなに触れたくてもその勇気が出ないなんていう場合があるとしたら、たぶんこの街はどこよりも味方になってくれる土地なのだろう。こちらが迷う暇もなく、狭すぎて向こうからぶつかってくるのだから。
 そんな時は暴走自転車すら天使に見えてしまうだろう自分を、人間ってゲンキンだよなぁなどと思いながら一英は平和橋を越えていく。

 ◇

 盛の熊さんに着くと、普段より早く開店したという店内は、今までになく客で溢れかえっていた。珍しく店内奥のシャッターも開けられており、いつもより広いはずなのだが、それでも狭く感じられる。天井近くにテレビがある辺りでは、競馬好きのオヤジたちがいつもより多く集まり、煙草の煙をモクモクさせながら調教映像にかぶりついていた。
「来ましたですよー!」
 勝手口から入ってきた二人をとがめもせず、厨房からは忙しそうな大将が声をかけてくる。
「おう、来てくれたのか! なんたって年に一度の大サービスデーだからな!」
「え? 今日って大将の誕生日なんじゃ……」
 一英が不思議そうな顔をすると、大将がガハハと笑う。
「そうだ、誕生日だからな。今日ばっかりは日々の感謝を表さねぇとなんねぇだろ。今日は五百円で飲み放題の食い放題! がっつり奉仕させて頂く日よ」
 凛と恵と絵梨香が飾ったという店内は、クリスマスの時にしか見ないようなキラキラモールや、子供が作ったみたいな折り紙の鎖、それ運動会で使うやつでしょというくらいに長い万国旗などで、壁やら天井やらが素晴らしくチープで賑やかなことになっていた。
 熊を象って切り抜かれた画用紙が糸であちこちに吊るされているのを見上げながら、一英は大将の殊勝すぎる趣旨に半ば呆れたような息を漏らす。
 客席と厨房をせっせと往復する大将は、凛の染めたピンクの江戸小紋を恵が鯉口に仕立てたというプレゼントを着て、頭には絵梨香からもらった『9056』という派手な印字の鉢巻きをしていた。
 給仕に忙しそうな大将に一英が「もらうね」と声をかけ、冷蔵庫の烏龍茶を物色していると、白い歯をこれでもかと見せムハンマドが高笑いしてきた。
「ヘイ、カズヒデ! 彼女にフられたんだってネ!」
 見れば、ムハンマドも今日は仲間を多く連れだっていて、奥まった外人卓には六人もの巨漢がひしめいていた。
 この世で一人にしか知れていない情報が既にばれていることに、一英はムハンマドとハイタッチするタレコミ屋を恨めしそうに見やる。
 ジャスティーに知れたことは葛飾中に知れ渡るのだと理解してきた一英は、開店一時間で早くもドンチャン騒ぎの様相を呈しているスペシャル感謝デーを傍観しながら、烏龍茶のペットボトルを悔しげにあおった。
 突然、つかつかと一英に寄ってきた凛がその背をバシッと叩く。
「くぉら、井梶かずひでぇ! 何度も呼んでんだから、返事くらいしなさいってぇのよ! お前さん、今日はきっちり歩いて来たんだろうねぇ? 今日はとことん飲むんだよ、わかってんのかい! 安いにあぐらかいて飲みまくる、それがこのセンベロ立石での流儀ってぇ――」
「はいはい! 飲んでます! 飲んでますってば!」
 一英が「ほらね?」と言わんばかりに、カウンターにあった空のビール瓶を出して見せる。だが凛は、ウォラーと叫ばん鬼のごとく眉を吊り上げた。
「ちがぁーう! ビールは酒じゃぬぁーい!」
 凛はうわばみのくせに既に大虎で、相当面倒くさいことになっていた。
「一緒に飲むぞ!」
 覆いかぶさるようにしてまで無理やり肩を組んでくる凛に、一英は頭の上からげろでも吐かれるのではとヒヤヒヤする。
 今日もハイボール片手にふらつく恵が、お立ち台に向かって拳を振り上げた。
「ジャスティー、なんか歌ってよぉー」
「じゃあ、みんなで歌えるアレをかけましょう! アレを!」
 恵のリクエストに応えようと、ジャスティーがカラオケ機の前で何やらごそごそし始める。するとすぐに、古いレコードのような雑音から、くぐもった曲が流れ出した。
 そのイントロが耳に馴染みすぎた――というより魂に刻まれすぎた葛飾音頭すぎて、店内に笑い声と喝采が起こる。
 誰からともなくチョチョンがチョンの手拍子が始まり、歌い始めから全員参加の大合唱となれば、凛が「踊ったらぁ!」と前に出て、我も我もと酔っ払いたちが踊り出す。
「オー、ボンダンス!」
「ダンス、ドウヤル?」
 踊りを知らない外人たちもいそいそと席を立ち、恵や絵梨香の手ほどきが始まった。凛から解放された一英は、案外器用に踊る巨漢たちを眺めながら、葛飾音頭の歌詞に耳を傾ける。
 勝手に口をついたそれにふと笑みがこぼれた。
(小さい頃、本気よたよた婆(ばば)が行く、だと思ってたんだよな)
 ほんによさよさパラダイス。
 小さな子供にとって、何のことやら解らないがやけにキャッチーだったその一節は、大人になった今でも、耳にすれば悔しいかな郷愁をかきたてられるものだった。
 区民である以上、夏になるたびそれを聞いて育ったわけで、選択の余地なく刷り込まれたこのソウルソングは、彼が涼しい顔で忘れていた数年間を嘘のように流していく。






【補足】
一英が勘違いしていた葛飾音頭の歌詞について。
やたらこだまする盆踊り会場や、会場から漏れる音を遠くから聞くなどすると、そのような空耳歌詞で聞こえたりもします。


 
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