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お母さんは忙しいのです




 



 コウくんのお母さんはいつも急いでいます。
 だって、お母さんはいつも忙しいのです。
 掃除に洗濯、買い物、お料理。それにお店のお仕事だってしています。
 だからお母さんは、時間をとても大切にします。
 時間がなければ、なにもできないからです。
「子供はいいわよねぇ。お母さんって大変なのよ、いっつも忙しいんだから!」
 それがお母さんの口癖でした。
 お母さんは忙しいのです。
「ほら、こうすけったら! なにやってるの! はやくご飯食べて、はやく歯を磨いて、はやくお着替えもして! 幼稚園に遅れちゃうわよ!」
 お母さんは朝からバタバタ、バタバタ。
 でもコウくんは、お母さんが言うようには、なかなかできません。
 コウくんにのんびりしているつもりはないのです。コウくんはコウくんなりに一生懸命で、はやくはやく、朝の支度をしているのです。
 それなのに、きょうもまた、コウくんはお母さんに怒られてしまいました。
「ほら、こうすけったら! 帽子とマフラー忘れてる! セーターはちゃんと着たの?」
 冬の朝はとても寒いので、制服のセーターを着たら、その上に幼稚園のブルゾンを着ます。
 コウくんがせっかく自分でファスナーをしめたのに、お母さんはそれをピャーッと下ろして、中にちゃんとセーターを着ているか確かめます。
「よし、オッケー! 行くよ!」
 お母さんはそう言うと、自分も毛糸の帽子をかぶりました。
 でもコウくんを振り返って、また怒鳴るのです。
「ほうら、ちゃんとファスナーしめて!」
 自分で開けたのに、それを忘れちゃうくらい、お母さんは急いでいるのです。
 毎朝、幼稚園まで送ってくれるお母さんの自転車は、きょうもびゅんびゅん風を切って走ります。
 ゆうべの強い北風で、街の木々はほとんどが枯れ木になってしまい、あたりには落ち葉がいっぱい落ちていました。
 自転車が落ち葉の上を走ると、パリパリとたくさんのかわいい音がします。
 でもお母さんはそんなことには気づいていない様子でした。
 あんまり速く走るから、お耳に風があたって小さな音は聞こえないのかもしれません。
 コウくんを幼稚園まで送り届けると、お母さんはコウくんに大きく手を振り、ぴゅーんと風のように去っていきました。
「お母さん、これからおしごとに行くんだよ」
 コウくんが先生にそう言うと、先生はにっこり笑って、
「そう。お母さん、毎日忙しいねぇ」
とコウくんの頭を撫でてくれました。
 その日の、おむかえの時のことでした。
 コウくんのお母さんはいつものように、バタバタと走りながらやってきました。
 おむかえに来たおうちの人たちが、みんな列になって並んでいます。
 コウくんのお母さんはその一番後ろに並び、
「もうお迎えの時間なんて、早いわぁ! ほんと、忙しいわぁ」
とほかのお母さんに声をかけていました。
 お母さんは、毎日あんなに走って急いでいるのに、どうしても毎日時間が足りないのです。
 もっとお母さんに時間があればいいのにと、コウくんは列にいるお母さんを見ながら思っていました。
「さぁ、こうすけ、とっとと帰るよ! きょうは急いで帰って、荷物を家においたら、そのまま買い物に行くよ!」
 急げ急げとコウくんの手を引っぱるお母さんは、それそれとコウくんを自転車に乗せます。
 後ろのイスに座ったコウくんは言いました。
「お母さん、ぼく、ブルゾンぬぎたい」
「えぇ? どうして?」
「だって、あついんだもん」
 お母さんが見上げた空は、朝と違って、とてもあたたかいお日さまが照っていました。
 仕方ないわねと言ったお母さんは、コウくんが脱いだブルゾンをくしゃっと丸め、コウくんの背中のほうに入れました。
「ブルゾンは背もたれのほうに置いておくから。落っことさないようにちゃんとイスに寄っかかって、背中で押さえてるのよ」
「わかった」
 きょうは幼稚園から持って帰る荷物が多くて、自転車の前かごはいっぱいでした。
「さようなら!」
 自転車にまたがったお母さんは、幼稚園の先生や、ほかのお母さんたちに元気な挨拶をして、走り出します。
 お母さんが急いでこぐ自転車はとても速くて、地面がでこぼこしているところではガタガタと大きく揺れました。
 朝と同じ道を逆に走って、コウくんを乗せた自転車はおうちに向かっていきます。
 朝は落ち葉がたくさん落ちていたところも、帰りにはきれいに片付いていました。
 きっと近所の人がお掃除したのでしょう。
 あのパリパリしたかわいい音が聞けないのは残念でしたが、枯れ木を見上げると、その向こうには見たこともない大きな丸いものが浮かんでいました。
「うわぁ! お母さん、見て!」
「えぇ? なにを?」
「空だよ、空!」
「空なんて見られないわよ、自転車が転んじゃう! 空がどうしたの?」
「大きいふうせんみたいなのがあるよ」
「雲?」
「ううん、ふうせんみたいの」
「風船? 気球かな? あぁ、もしかしたら飛行船かもね!」
 そんなことを話しながら、お母さんの自転車はおうちの前で止まりました。
 お母さんにイスから下ろしてもらったコウくんは空を指します。
「ほら、あそこ!」
「ごめん、こうすけ! 時間ないから早く! 荷物玄関に置いたら、すぐ買い物行くよ!」
 ちっとも空を見てくれないお母さんは、玄関の鍵がなかなか見つからずに大慌てです。
 でもコウくんは慌てません。
 お母さんが鍵を探すのはいつものことだからです。
 お母さんはどうしていつも、違う場所に鍵を入れてしまうんだろう。
 きっと忙しいからだな。
 コウくんはそう思いながら、お母さんのバッグのポケットに手を入れ、ちらりと見えていた鍵を取り出しました。
「あったよ」
「ありがとう!」
 手に荷物をいっぱい持ったお母さんは、鍵を回すと、玄関のドアを開けます。
「あら、やだ! こうすけ、ブルゾンがない! ブルゾンどこ行ったのかしら!」
「え? なんでないの?」
 慌てて自転車に駆け寄ったお母さんは、コウくんのイスを確かめます。
 がっくりとうなだれたお母さんは言いました。
「あぁもう、嘘でしょ……どこかに落としてきちゃったみたい……」
 お母さんの困った顔を見て、コウくんは悪いことをした気持ちになりました。
「こうすけ、ちゃんと寄っかかってなかったんでしょう? もう、だから言ったのに」
「ごめんなさい」
「ほんとに、ちゃんとしてよね!」
 ぼくがちゃんと寄っかかってなかったから、ブルゾンは自転車から落ちてしまったんだ。
 どこで落としてきちゃったんだろう。
 もう見つからないのかな。
 コウくんが泣きそうな顔でしょんぼりしていると、お母さんはコウくんのお尻を急がせるように叩きます。
「ほら、探しに行くよ! 自転車乗って!」
 お母さんはすぐに自転車の向きを反対に変えましたが、玄関には鍵がささったままです。
 コウくんは玄関のドアと鍵をしめると、ちゃんと鍵を抜き、お母さんに渡します。
「あぁ、鍵! やだもう、忘れてた! あんたがブルゾンなんか落とすからよ、もう!」
 早く乗ってとお母さんに言われ、コウくんは自転車によじ登ります。
「急がないと、誰かに拾われちゃうわ。落ちたままになってたほうが見つけやすいんだから、急ぐよ!」
 お母さんの自転車は、帰ってきた道をまた逆さまに戻っていきます。
 コウくんもお母さんに言われ、どこかにブルゾンが落ちていないか、道の上を皿のような目で見ていました。
「お母さん、もっとゆっくり走らないと、さがせないよ」
「だめよ、急がないと!」
 二人で探しながらやってきましたが、幼稚園が見えてきてもブルゾンは見つかりませんでした。
「やだぁ、見つからなかったわ。ほんとにどこで落としたのかしら……」
 幼稚園までは自転車で十分くらいかかります。
 その十分を二回も走ったお母さんは、へとへとに疲れていました。
 幼稚園の駐輪場まで来てもブルゾンは見つかりません。
 大きな溜め息をしたお母さんを見て、コウくんは悲しくなりました。
 そこに、幼稚園のほうから先生の声がしました。
「コウくん! お母さん! ブルゾン、届いてますよ!」
 驚いたコウくんとお母さんのところに、先生はブルゾンを持ってきてくれます。
「知らないおばあさんが、幼稚園まで届けてくれたんですよ」
 よかったねと笑う先生に、コウくんも嬉しくなってにこにこしました。
 お母さんもほっとした顔で、幼稚園に戻っていく先生に何度もお礼を言いました。
「今度は落とさないように、前かごに入れとかなきゃ」
 そう言ってお母さんはブルゾンをかごに押し込み、自転車をこぎ出します。
「ねぇお母さん。おばあさんが拾ってくれてよかったね」
「そうねぇ。でも拾わないでそのままにしておいてくれたら、もっと早く見つかったと思うわ。幼稚園まで来なくても良かったのに。ちょっと時間食っちゃったかなぁ」
 腕時計を見たお母さんは、それじゃあ今度こそ買い物に行くわよと、また自転車をびゅんびゅん走らせました。
 さっきよりも速いスピードで、いつもの帰り道を駆け抜けます。
 交差点で青信号がチカチカしているのを見つけると、お母さんはもっとスピードを上げました。
 ところが、自転車が横断歩道を渡ろうとした時。
 その前に立っていたおばあさんが、こちらに向かって手を上げたのです。
「ちょっと、すみませんがねぇ……」
「あっ、はい!」
 突然声をかけられたお母さんは、慌てて急ブレーキをしました。
 その勢いで、コウくんがお母さんの背中に鼻をぶつけます。
「すみませんねぇ。道を聞きたいんですけどね、フラワー商店街ってこの道の先にありますかねぇ」
 腰の曲がったおばあさんは、自分が向かっていた方角を指しました。
 でもお母さんは首を振ります。
「あら、ちょっと通り過ぎちゃってますね。フラワー商店街は、そこの角を曲がるとありますよ」
「まぁまぁ、そこの角でしたか。解らなかったわ。ありがとうございます」
 おばあさんはおじぎをすると嬉しそうに笑って、来た道を戻っていきました。
 おばあさんは、ゆっくり、ゆっくり、歩いていきます。
 でもコウくんは知っていました。
 おばあさんというのは、早くは歩けないのです。
 どんなに急いでも、早くは歩けないのです。
「なんだかきょうは、足止めばっかりされるわね。ついてないな」
 はぁと溜め息したお母さんは、自転車をよいしょとこぎ始めます。
 いつも忙しいお母さんは、時間がなくなってイライラしているようでした。
 そうです。
 お母さんというのは忙しいのです。
 お母さんだから、忙しくて時間がないのです。
 お母さんに余計なことをしている暇はないのです。
 コウくんはお母さんに言いました。
「あのおばあさん、よかったよね。時間がむだにならなくて、よかったよね。忙しいのに、迷子になってたら時間もったいないもんね」
「え?」
「おばあさんも、お母さんだもんね。買い物で忙しいんだよ」
 キィッと自転車が止まりました。
 お母さんがゆっくりとコウくんを振り返ります。
「こうすけ……」
 お母さんは、驚いたような、困ったような顔をしていました。
 そして、八の字の眉毛で空を仰ぎ、ハァーッと深い溜め息をします。
 何回も頷いたお母さんは、そうねぇと言って笑いました。
「忙しかったのかもねぇ」
「お母さん、ごめんね。ブルゾン落っことして」
「ううん。ブルゾン落としたおかげで、あのおばあさんを助けてあげられたもの。ブルゾン落としてなかったら、お母さん、この時間にここにいないはずだもの。そしたらあのおばあさんには会えなかったでしょ?」
「あのおばあさんが、ブルゾン拾ってくれた人?」
「さぁどうかしら」
 また前を向いたお母さんは、後ろ向きに手を伸ばし、コウくんの膝をさすります。
 なぜお母さんが、ごめんねと言ってさすったのかは解りませんでしたが、お母さんの手はとても温かくてコウくんはいい気分になりました。
 ゆっくり走り出した自転車は、ゆっくりとおうちに向かって、帰っていきます。
 夕方の空。
 まだ残っていた枯葉が一枚、木からはがれ、風に舞っていきました。






 
童話の企画に参加したものです。
読んでくださってありがとうございました。

この親子は「葛飾、最後のピース」に出てくる
美洋と孝介という設定で書きました。


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