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ひとりぼっちの人魚




 



 私には名前がない。
 あったかもしれないし、あった気もするけれど、今はない。

 あのとき何があったのかはよく覚えていない。ただ私は逃げそびれ置き去りにされて、そのまま忘れられてしまった。
 きっと私は乳離れをしていたのだろう。だから独りでも、こうして今まで生き長らえてしまったんだ。

 もう物心はついていたはずの私なのに、あのとき何があったのかはほとんど覚えていない。覚えているのはただ、鰯の大群を目の当たりにしたことだけ。
 突然のことだった。
 鰯たちはまるで嵐を呼ぶ雨雲のように、恐ろしいまでの速さで集まってきた。そしてぐんぐん膨れ上がると、あっという間に頭上を真っ暗にしていったのだ。
 そのおびただしいまでの数に、ひた怯えた私はひたすくんで。視界まで揺るがすくらいの轟音に、まだ小さかったヒレを固く固く強ばらせてしまった。
 ゴォゴォと今でも耳に残るあの唸りは、乱れて渦を巻く海の音だったのか。それともか弱い鰯たちが、互いにぶつかり合って砕け散る音だったのか。

 食べられてしまうと思った。
 その大きな塊は鯨(くじら)さえひと呑みにしてしまうという、おとぎ話の巨大で強靭な悪い魚のようで。
 塊はどんどんと数を増し、海の天井は低くなる一方だったから、はるか遠くだと思っていた水面(みなも)まで いつの間にかすっかり埋(うず)まっていた。
 とうとう手を伸ばせば届くほどまでに迫った鰯たちに、私は息を詰まらせまばたきも忘れて。引きずり込まれてしまいそうなその長い髪の毛を、必死になっておさえていた。

 ふいに私は誰かに腕をつかまれ――多分ママだ――岩場へ隠れるよう言われた。
 私を連れて逃げようとしたその人が、行く手を阻むものに気づいて小さな悲鳴を上げる。
 ――鮫。
 見渡すと私たちと鰯の大群は、さまざまな魚に取り囲まれていた。ピッと尾ヒレをかえして逃げ道を狙うも、鮫たちに鰯もろとも追い込まれてしまう。
 だんだんと取り囲む輪が小さくなって、鰯たちはパニック状態。狂った鰯たちは容赦なく飛びまわって私を痛めつけた。

「誰か助けて!」

 ママが叫ぶ。
 この声は外の誰かに届いていたんだろうか。私が巻き込まれたゴォゴォという轟音は、何もかもをかき消していていたけれど。
 鰯たちに煽られるうち、固く繋いだはずの手と手が解けてしまった。そして一瞬のうちに、その隙を見逃さず、神さまは抱き合っていた私たちを、無慈悲にも引きはがした。

「ママ! ママ!」

 馬鹿みたいに金切り声を上げる私。暴れるその腕がまたも誰かに捕らえられ、私は勢いよく鰯の中から引っぱり出された。
 パパだった。

 あぁ、パパ!
 ママの姿はすぐに見えなくなってしまったの。
 何度もつかみなおそうとしたけれど届かなかったの。
 私のせいでママは!
 私のせいでママは!

 言いたい言葉は喉につかえてしまって、何ひとつ出てこなかった。パパの広い胸の中で、かすれたような情けない声をあーあーと絞り出すだけの私。
 パパは猛スピードで鮫の脇をすり抜けて、岩場へ滑り込んだ。

「ここで待っていなさい」

 そこにいた姉に私を預けると、パパは私に軽くキスをして、そのままひるがえった。

 パパお願い!
 ママを助けて……!

 私たちが穏やかに暮らしていたはずの海草の森。
 それが鮫たちによって無残にも荒らされ、次々と噛みちぎられていた。

「ここはもうダメね」

 一緒に岩場に隠れていた誰かの声が聞こえた。

「いや! まだあの中にいるのよ!」

 鰯の中に吸い込まれた人がまだいたんだろう。誰かのお母さんが男たちに取り押さえられている。

「今なら間に合う! 男たちは残された者を助けに回れ!」

 示し合わすと、男たちは一斉にあの異常な群れの中へ飛び込んでいった。
 大きな魚たちは鰯をすっかり浅瀬に追いつめてしまっていて、いいかげん襲い始めていたけれど。今なら間に合う。その言葉が、少しのあいだ私を安心させた。別の誰かがこうやって叫ぶまでは。

「鯨だ――!」

「もうダメだ! みんな戻れ!」

 鮫なんかよりもずっとずっと大きくて黒い魚影が、ゆっくりとこの狭い浅瀬にのめり込んできた。

「……ダメ!」

 私を抱いていた姉がするりと腕をとき、岩場から飛び出した。

「おねえちゃん! 待って、行かないで!」

「私は鯨のことを知らせに行くから! あなたは待ってなさい! 私がパパたちと行き違いになった時に、あなたがそこにいなくてどうするの!」

 そこにいなさいと姉は言い残して、今や酸欠状態であろう鰯の塊へと向かっていった。
 私は岩に身をくっつけて、彼女の背中を見送った。ゆっくりとした動きのわりに鯨の泳ぎは速く、振り向くと嘘みたいな近さまで来ていた。

「もうダメだ!」

 耳を引き裂く誰かの叫び声。
 もうダメなんだろうか。心臓がそれまで以上に速くなる。
 大きな影がぬうっと岩場を横切って。
 見上げると、大きな体に似合わなくお粗末にひっついた小さな目玉が、私を見下ろしていた。
 鯨は震える私を無視するように目玉をそらし、浅瀬に向かいぐんぐんとスピードを上げる。
 そして――

 ザウーッ!

 ……信じられなかった。信じたくなかった。背後から悲鳴が漏れるが、私は声なんて出せなかった。喉を開いたら今にも心臓が飛び出してしまいそうで、胸の中に留めるので精一杯だった。
 鮫たちがちまちまと襲いかかるのを尻目に、鯨は大きなあごを全開にして、一気に鰯の中へと突っ込んだのだ。ザウーという、鰯をすくい取る音が耳にこびりつく。
 ひと呑みで鯨はどれだけの餌をさらったのか。
 鯨のひとくちなど及ばないほどの数で、鰯たちは未だに猛威を振るっているけれど。この騒動を見逃さずに敵はどんどん駆けつけて。みんながお腹を満たし帰っていく頃には、あの塊も半分の半分の半分くらいに小さくなっていた。

 ひと呑み。
 ひと呑みの鯨たちが次々やってきて、ばくばくと、私の心臓よりも速いスピードで鰯たちを呑みこんでいった。
 ひと呑みにされたのは鯨ではなく、おとぎ話だったんだ……。
 私はそう思った。
 現実はひどく。おとぎ話よりも残酷で。鯨をひと呑みにするかと思えた鰯の群れも、鯨には勝てなかった。
 おとぎ話なんて嘘。この世には、鯨をひと呑みにできる魚なんていないんだわ。だって鯨は圧倒的に強く、ほんの短い時間で私の人生のすべてを呑みこんでしまったのだから。

 嵐の去った森にはパパの姿もママの姿もなかった。おねえちゃんの姿も。さらわれたままだった子供の姿もなかったし。助けに入った人たちの姿も。
 みんなみんな、なかった。
 食べられてしまった。


 長いこと泣き暮らしていた人たちも、一人また一人と森を離れ、最後には私だけが残った。
 一緒に行こうと誘ってくれた人もいたけれど、幼い私はその場を離れなかった。
 パパは待っていろと言った。おねえちゃんもそう言った。きっとママを連れてかえってくるはずだから、と。

 そして、今でも私はここにいる。すっかりよみがえった森に埋もれて、この季節になるとあれきり一度もやってこない鰯の群れに、今でも怯えながら過ごしている。
 今は森に隠れてしまって見えないけれど、潜ればすぐに私は見つけてしまう。あの日の無残な光景。それはいつからか、ここに浮かび上がってきた残像。
 うっすらと、しかし確かに、その惨劇は今でもここにあった。
 きっと一瞬が激しすぎたから、強すぎたすべての想いがここに焼きついてしまったのだろう。
 いつまでも消えないどころか、時を経るたびに濃くなるような、過去の現実。
 私の胸にいつまでも突き刺さる。

 私には名前がない。
 呼んでくれていたあなたがもういないから。
 私には名前がない。
 新しく呼んでくれる人ももういないから。

 あのとき何があったのか、私はよく覚えていない。
 ママが最後に私の手を離す時、その唇は何か怨みごとを言ってなかっただろうか。パパとの最後のキスも……、いいえキスなど、それすら生まれてから一度だってなかったんじゃないか。……おねえちゃんが最後に振り向いた時なんか、待ってろという言葉ではなく、その腕で私をこまねいて、一緒に来いと叫んでいた気もする。
 物心はついていたはずなのに何もかもが曖昧で、すべてが真実に思えて、私は事実を決められないままだ。
 そもそも鰯の大群なんかが、本当にこの海にやってきたのかさえも……。


 静寂が永遠のようだった独りの時。それは突然に破られた。
 ゴォゴォという地響きのような音が、森の向こうから近づいてくる。忘れることのなかった、耳に刻まれたあの音。近づくのは嵐だと教えるように、水面(みなも)が大きくうねり出す。
 私は岩場から飛び出した。小さな胸が、あの日と同じように激しく脈打つ。
 だんだんと大きくなる轟音が、私の隠れ家を壊れそうなくらいに揺らした。

 ――来た!
 あぁ、そう。あれは紛れもなくあの日の嵐。あの日とおんなじ。凄まじい速さで集まって増える、雨雲があっという間に天を覆う、海は銀色にかがやく鰯でいっぱいになる。そして待ち伏せていた魚たちに阻まれ、後をつけてきた魚たちに追いつかれ、この森はひどい騒ぎになるんだわ。
 鮫たちは音もなく首尾よくやってきて、鰯の周りをぐるぐる。手当たり次第に追い回し、真正面から獲物を狙う。そして彼らが浅瀬に追い込まれたころ、大きな体をねじ込んで鯨がやって来るんだ。
 その大きな魚影を目にした途端、腕がしびれた。
 掴まれた時のことを思い出したのか。
 離された時のことを思い出したのか。
 ゆっくりと脇を通り過ぎる鯨。私は勢いよくその前へと躍り出る。今は大きくなったヒレを強く蹴り上げて、最高のスピードで。
 そして荒くれる鮫たちをすり抜け、その歯をかわし、ゴォゴォと泣く鰯の中へと飛び込んだ。鰯たちはワッと私を避けたが、すぐさま鮫に追われて引き戻り、私を覆ってしまった。
 鰯たちは森に隠れようとし、鮫たちはあの日と同じように森を壊してゆく。見えなかった過去が暴かれてゆく。やっぱり消えていないあの残像が、食いちぎられる海藻の中から露わにされ、鰯たちの隙間で見え隠れする。
 残像の鰯と、現実の鰯。
 それが巧みに絡まりあって、どちらが本物なのか解らなくなる。沈黙だったこの残像に生々しい音が加わり、私は吐き気を覚えた。

(助けて!)
 ママの声が聞こえる。

(ここにいなさい)
 パパの声も聞こえる。

(さぁ一緒に来るのよ……)
 あぁ、ほらごらんなさい、やっぱりおねえちゃんは呼んでいた。

 ――ザウーッ!

 始まった。

「私はここよ!」

 名前などないけれど、私はここでもがいている。
 あなたが奪ったすべてを諦めきれずに、今でもこうして、死にそうに生きている!
 さぁ呑みこみなさい。私からすべてを奪ったのだから、私をすべてから消してしまえばいい!
 ……神さま。無慈悲なあなたは、愛を失くした私をここまで惨めに生かしてきた。
 あなたが無慈悲でないというなら、今ここで私を終わらせて。過去も現実も縛り上げて、あの深く暗い口の中に放り投げて下さい――!

 全身の力を棄てて、私は鰯の海に身をゆだねた。
 ゴォゴォという轟音は、いつか聞いたママの音。
 激しく打ちつける鰯たちは、いつかもらったパパのキス。
 目の前で大きく開く鯨の口に、おねえちゃんの手がおいでおいでして見えた時。
 私はすべての祈りを捨ててまぶたを閉じた。

 ――ザウーッ


 ――ザウーッ


 ……ざうー……ん……


 ここは海。
 生まれ育った海草の森。
 私はまだ生きていた。また置いていかれて、荒らされた森に独りぼっち。涙がひとすじ流れた。それは再び静寂を取り戻したこの海で、潮になって消えた。
 鯨はたくさんいたのに、たくさん鰯をさらったのに、一度も私を呑みこんではくれなかった。鮫でもよかったのに、私は尾ヒレすら食いちぎられることもなく。願いは届かなかった。
 そしてやっぱり私は独りぼっち。
 どこかの姫みたいに、泡になって消えてしまいたい……。
 ぐちゃぐちゃになった森を見渡すと、そこにはもう残像の影はなくなっていた。あんなにかき回しても溶けなかったのに。あんなに埋(うず)めても腐らなかったのに。もう、跡形もなかった。
 荒らされた森はその砂地をさらけだしている。漂うように力なく森をひとまわりして、その海底に、私は珊瑚のかけらを見つけた。拾い上げると、それはいつもママの耳で揺れていた珊瑚だった。
 こみ上げるものが胸を襲う。勢いよく天井を目指す。
 私は海豚の息つぎみたいに大きな息を吐き出して海面へ飛び出し、海豚は絶対に見せない不様な咳込みをお月さまにご披露した。
 拾ってきた珊瑚を震える手で包み込むと、私はとびきり優しいキスをあげた。何度も。溢れる涙と嗚咽をこらえ、何度も。

「……あぁ、ママ! ……ママ!」

 独りぼっちの世界で、いるのかも、いないのかも解らなかった私。まるで、生まれたことを許されたみたいだった。生きていくことを認められたみたいだった。それはママがいた証し。私を知る人がいた証し。私は本当にここにいたんだわ。
 そう思い私は耳たぶに穴を開けた。
 ママの耳で揺れていたみたいに、私の耳で揺れる珊瑚のかけら。お月さまの光で私はずいぶんと美しく映り、波間に浮かんでいたことだろう。
 耳から滴る赤い血が、首をつたって肩から海へとにじんだ。
 私はもういちど海へ潜ると、住みなれた森を見下ろした。
 やっぱりもう、何もない。
 やっぱりもう、誰もいない。
 私の残像は終わっていた。いつまでも泣きくれる目に宿っていた過去は、ママの珊瑚と引きかえに。
 それはパパがプレゼントした珊瑚。おねえちゃんが欲しいとねだっていた珊瑚。

 ぷつりと何かが切れる音が聞こえて。行けるかもしれないと思った。
 愛した人たちは帰ってこなかったし、願った所へも行けなかったけれど。
 きっと今飛び出せば、どこまでも行ける。
 私はもう行ける。
 新しい海へ向かって、一度も振り向かずに漕(こ)いでいけるんだ。
 そんな気がした。

 出よう。抱かれた森から。奪われた森から。それでもなくならない愛を携(たずさ)えて、私はこの海を離れよう。新しい名前ならきっと誰かがくれる。
 満月の夜にはきっと、この森とあの日のことを思い出して。
 きっと愛されていた真実を思い出して。





 
読んでくださってありがとうございました。
オーストラリアのとある海を舞台にしました。


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