>NOVEL

例えば猛進する猪のように




 



 私の住処はダウンタウンの安アパートだ。
 なんの変哲もない。ただ古く、汚いのだけが取り得のアパート。
 それでも人生は素晴らしさに満ちているから不思議である。



 こんな場所でも人は輝くのだと知ったのは、3ヶ月前から隣の部屋に住み始めたビッキーのおかげ。
 昨夜だってビッキーは、年相応にぽっちゃりとした体を揺らして言った。
「這い上がるからこそ美しくなる。そうでしょ?」
 自信の溢れた唇に真っ赤なルージュを乗せ、女の私をもうっとりさせるくらいの微笑を彼女は見せてくれる。
 ビッキーは逞しく美しい。
 美しさは逞しさへのご褒美なのだとさえ思えるほどに。

 彼女は日々、娘のために働いている。
 離婚した夫のもとにいるまだ9才のかわいい娘。その娘に会うためには、元夫が不当に取り決めた資格が必要なのだという。手取り月収1200ドル以上であること、そしてその給料日に娘の口座へ900ドル送金すること。
 翌日夫は口座の金額を確認してビッキーを自宅の玄関先まで呼びつけると、彼女の持ってきた給料明細を隅から隅までそれこそ難癖の取っ掛かりを探すようにして眺め回し手取り月収を確認する。
 残った金額から家賃も光熱費も引かれれば、彼女の実際の生活費はゼロなど通り越しすっかりマイナスになっているはずだ。
 無学なうえ若くもないビッキーには決して稼げるわけがない。それを解って要求してくるなんて。
「そんなの嫌がらせ以外の何者でもないじゃない」と、私は彼女に抗議した。
 でもビッキーは笑うのだ。
「たとえ不当であろうとそれであの子に会えるのなら、私はきっちり支払ってみせるわ」と。
 そして本当に、毎月その額をどこからか弾きだしてくる。
 ……私はその出どころを聞かなかった。
 聞けるわけがなかった。
 昼間なら彼女が角のレストランでウエイトレスをしてるのは知っている。
 私が行けば、こっそりとフライドポテトを多くしてくれる。私もそっと心ばかりのチップをはずむ。
 ウエイトレスの仕事が終われば一度家へと戻り、着飾った彼女はその後どこへ行くのだろう。
 先々週の夜遅く、数ブロック先の暗がりで見かけた街娼が肥えらかな彼女のシルエットと似ていたなんて、気にしないべきだろう。
 それでも私の胸はひどく痛んだ。

「ビッキーは逞しく……美しい……」
 独り、部屋で呟く自分を、今日も私は嫌ってしまう。
 比べて私はなんて甘ちゃんなんだろう。
 そこそこの学もありそれなりの仕事にも就いたくせに、私という女は、ぬるま湯につかったまま不満ばかりを感じてる。
 社会に出て2年半、キャリアアップのためと称した転職先で、この数ヶ月間私がしていたことは実に下らなかった。
 職場の白人上司にこき使われたと愚痴り、同僚からはセクハラまがいの嫌味を言われたと愚痴り、それを人種差別に違いないと叫び、たとえ実際そうだとしても、裁判に持ち込めるほどには決定的な証拠も金もないのだからと不貞腐れる。
 決して脱ぐことはできない有色の肌を嘆き、神を恨み、国を蔑み、挙句そんな愚痴ばかり並べていたら恋人には愛想をつかされ大ゲンカをしてしまった。
 売り言葉に買い言葉、謝る機会も失って、一人で寝るベッドは広くて寂しいなどと言っている。



 ある朝、それも夜明け頃、ビッキーは左目を腫らして帰ってきた事がある。
 彼女が出かける時、帰ってくる時、廊下で軽快に鳴り響くヒールの音が大好きで、私はいつものようにその足音に耳を澄ましていた。
 その日は普段と違いヒールが不自然なリズムを刻んでいたので、おかしいと思った私はベッドから這い出しガウンを羽織い、そっと玄関のドアを開けた。
「ビッキー……どうしたのその顔……!」
 彼女の金色でゴージャスだったハイヒールは、右足だけが折れていた。
 ビッキーは潔いほどに鼻を鳴らすと、ぶらぶらと未練がましく踵についているヒールを引きちぎり、階段下へと放り棄てた。
 螺旋階段の中心をずっと下まで落ちていったヒールが、しばらくして寒々しい音をホールに響かせる。
「私はね、男なんかいなくたっていいの。ただ私たちをこうして侮辱する者がいる限り、どこまでも生きてやろうと思うのよ。……いくらだって強くなる。いくらだって笑ってみせるわ……!」
 そう言って彼女は大柄な顔のわりに小さな目を、長いまつ毛を蓄えたそれを吊りあげ、私を見据えた。
 強く見つめてくるビッキーの目は、就寝前に見ていたネイチャーチャンネルの、猛ったワイルドボアによく似ていた。
 農家の嫌われ者と言われるワイルドボア、しかし普段はとても温厚で人を襲う事などないという。
 彼らを害獣として捕まえ棒切れで叩く農場主の足元で、決して死ぬまいと悲鳴を上げて暴れまわるワイルドボア。
 私はなぜだかその凛とした命の輝きを、ビッキーの瞳から感じ取っていた。
 大きな身体に似合わず細い脚をして、高いヒールを履いて、滑稽なほど高慢に足音を響かせ、醜いと罵られようとも鼻を鳴らして笑いとばす。
 そのワイルドボアが、深い鼻息を鳴らして猛っていた。
 自慢げにツンと上を向いているはずの鼻が、痛みを堪える彼女の姿勢で下を向く。
 姿勢こそ弱々しいものの、我が道を邪魔する者はみな薙ぎ倒さんとばかりに膨れ上がったオーラは、争いの場に遭遇した事のない私にでさえ容易に感じ取ることができた。
 その感覚は、彼女の体内に燃え盛る真紅の炎を見た思いだった。
 見た者の魂さえ焼きつくすような生ける炎。
 ……私の背筋を何かが走り有色の肌を総毛だたせていった。
 彼らが猛進するとしたら、それは四方を囲まれ逃げ場を失った時なのだ。
 どこを向いても敵しかおらず、敵の間を抉じ開けて飛び出すしか道はない。
 気を奮い起こす咆哮を上げヒールを鳴らして駆けるワイルドボアを、誰が止めることができようか。
 ――あなたの左目を殴ったのは誰?
 ――あなたの背を蹴ったのは誰?
 先月も起きた街娼殺害事件が頭をかすめる。
 彼女の顔は左目どころか左半分が腫れてきていて、私は恐ろしさのあまり震える手で彼女の頬に触れた。口内から溢れたらしい血は、口の周りで固まって、真っ赤なルージュにまぎれ化粧崩れのふりをしている。見れば、着ている少し卑猥なワンピースも引きちぎれて、安物のコートには血と泥がついていた。
 私はためらいながらも無言で彼女をそっと抱きしめ、背についた泥の足跡を彼女に痛くないよう軽く払う。
 そんな払い方では消えようともしない卑怯者の足跡が、疎ましく、悔しくて仕方ない。
「……ビッキー……」
 無事でよかった……そう唇を突いて出そうになった時、涙の滲むほど猛っていた目を無理に細め、ビッキーは誇りを失わない笑みを作った。
 そして指先に引っ掛けた踵のないハイヒールを、私の目の前でぶらつかせる。
「……高かったのよ? 買ったばぁっかり。あんた、男の顔にヒールをめり込ませたことある?」
「……」
 なんて美しい笑顔だったろうか。正直に言えば、その笑顔がジャンヌ・ダルクにさえ見えた。
 顔を腫らせた中年女性を表現するのには、たしかに美しすぎたかもしれない。でも、それでも、あの時私は確かにビッキーがそれほど美しく思えたのだ。そして私はそんな彼女の強さをひとかけらでもいいからこの身に宿したいと、心から願っていた。
「まだね。……練習した方がいいかしら」
「ばかね、練習なんか要らないわよ! ただ、思い切り、踏みつければ、上出来。一番高価だったヒールになさい? 爽快感が違うもの」
 そう言って笑ったビッキーがぴたりを声をとめ、すぐさま天を仰いで首を振る。
「そうよ、一番高かったんだわ!」
 ビッキーは螺旋階段から階下のホールを覗き込むと、左足にヒールを履いたまま、もう片方は手に引っ掛けたまま、不恰好に階段を降りていった。
 私はその背に声をかける。
「戻ってきたらうちに寄って! その顔冷やしてあげる」
「あぁん、いい子! 悪いわねぇ! これ以上バケモノになったら、アタシだって仕事になんないのよ〜! レストランの看板娘は顔が命!」
 威勢のいい笑い声を上げながら、なおも無駄口を叩きビッキーが階段を降りていく。小さくなっていく彼女は手摺りから覗き込む私を何度も見上げ、その度に声のボリュームを高くした。あまりの騒がしさに階下から顔を出した男が叫ぶ。
「うるせぇ! 何時だと思ってんだ、このメスブタババァ!!」
「あぁーら、おはようウィンナー坊や〜! 教えましょうか、女はみんなメスブタなの! あんたもブタから生まれたウィンナー、ウィンナーにできることが何だか知ってる? せいぜい柔らかいパンの間でおねんねすることよ。さぁさぁ早く帰って、とっととベッドにお戻り。野生に帰ったブタが、あんたを襲いに行く前にね!」
 私は泣きそうになる気持ちを抑えながら、彼女が気丈に振舞う限りは私もそうしていようと思い直した。
 かっこいい女であることは簡単じゃない。
 ただヒールを履いて歩いていればいいというものではないのだ。
 固い誇りを持った者を知る方法がひとつだけあるとしたら、それは恐らく足音の美しさである。
 およそ生半可な者が敵うはずもない美しい足音には、凛とした人生が宿る。
 街を行くワイルドボアの足音はみな、優雅で強く、美しい。
 誰かの――何かのせいにしない、そんな強さが私にも手に入るだろうか。
 自分を不幸だと決めつけない逞しさが、私にも手に入るだろうか。

 今しがた奮発して買ったこのヒールを履いて、私は明日出社する。
 例えば猛進する彼らのように駆けなければならない時が来たとしても、私がこの足からヒールを脱ぐことは決してないだろう。
 むしろそのときこそ、待ってましたとばかりに踵を打ちつけ、華麗に窮地を切り抜けるつもりだ。
 例えその戦いが他人の目には醜く映ったとしても、私は気高いプライドをしっかりと持って戦い抜いてやる。
 だってこのツンとしたヒールには、そういう生き方が良く似合うから。
 そうでしょう? ビッキー?





 
   読んでくださってありがとうございました。
この作品はお題企画(タイトルがお題)に参加した作品です。
 


HOME

inserted by FC2 system